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2012年12月4日火曜日

Mian Xiaolinさんの感想(20歳の安部公房)


Mian Xiaolinさんの感想(20歳の安部公房)

Mianさんが、もぐら通信第3号(11月号)を読んで、「18歳、19歳、20歳の安部公房」の読後感想、或は読書ノートを書いてくれましたので、それを転載して、お届けします。お読み戴ければと思います。

「詩と詩人(意識と無意識)」は、10代の安部公房の死力を尽くした思考の総決算の理論篇ですから、安部公房ファンには是非読んで戴きたい作品です。Mianさんの感想が、その一助となることを願います。以下Mianさんの文章です。

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20歳の安部公房」は、僕にとってはかなり難易度が高いので、感想というよりも、同時進行的にノートを作りました。間違っている可能性もありますが、一般的読者がどのように受け取るかの事例になると思い、添付します。

贋岩田英哉氏の「20歳の安部公房」
読書メモ
客観と主観について。
人は思考する時、「これは主観的」、「これは客観的」などと区別する。ところが、その区別を意識が行っている以上、主観はあくまで「主観的主観」であり、客観はあくまで「主観的客観」でしかない(僕は哲学者ではないので、敢えてトートロジー的に記す)。つまり、「これは主観だ」とか「これは客観だ」と区別をしている主体そのものが主観である以上、(意識領域には)真の客観など存在し得ないのだ。
では、内面(無意識領域)においてはどうだろうか?そこにまた別の、意識に汚染されていない客観が存在している可能性はないのだろうか?それが存在するというのが安部公房の主張となる。

無意識領域に存在する客観がどのようにして形成されるのか。それのためのツールが問題下降と無限なのだろう(予想)。

もともと、人間には無意識領域は見えない。見通せない。人間が意識できるのは意識領域のみだ。安部公房は、おそらく人の本性は無意識領域にあり、無意識領域が意識を支配していると考えている。海面に浮かぶ氷山の一角が海上に浮かんでおり、これが意識領域であるとすると、これと比較して海面下に沈んでいる無意識領域はとてつもなく大きく、また質量も巨大だ。
意識領域においてある問題に関する思考或いは思念が展開されたとする。この思念は、いつしか意識から解放され、忘れ去られるか、あるものは無意識領域へと沈んでいく(印象の薄いものは忘れ去られ、印象深いものは意識の底に沈んでいくのだろう)。あるいは心理学的には、抑圧された感情が無意識化に沈んだり、人類が共通に持つとされる基礎基盤が無意識領域にあるという説も思い浮かぶ。
より本質的なあるいは原初的な取り扱い方で、その問題が意識領域に再出現するか、あるいは意識領域に影響を与え、それをきっかけに思考あるいは思念が再展開されるというモデルを考えてみる(安部公房はこの現象をより高次元への展開だとする。一つの概念形成があって、今度はその概念を道具あるいは手掛かりとしてさらに高次元の概念が形成されるというイメージだろうか)。何が言いたいかというと、ある問題について、それがずっと意識され続けてなんらかの結論に至るだけでなく、いったんその結論が無意識領域に沈んでいき、無意識領域がなんらかの関与をすることによって意識領域だけでは成しえない問題解決(あるいは達観)が起きるのではないかというモデルの提示だ。おそらく、詩人でもあった安部公房はこのようなモデルが存在することを確信していた(またそのような捉え方は現代心理学の見地からもある程度支持され得るだろう)。
問題下降とは、必ずしも意識領域だけで達成される機能ではないということなのだろうか。ただ、これは数学の問題、なんでもいいが、たとえば幾何の証明問題を解くことを考えると、必ずしもワインの醸成のような、長い年月を経て行われるものではなく、10分、20分という短い時間に、あるいは瞬時に成される可能性がある。じっと見つめていて、どこからともなく解法が閃くことがある。その問題を継続して意識しているといえば意識しているのだが、閃きはどこか他の場所、たとえば無意識領域からの働きであるとも考えられる。このような閃きによる証明の発見は、無意識領域からの関与などあったとは思わせないように、後付けで論理だてて言語化することができる(筋道を立てて説明してしまえば全部意識領域の出来事になる)。しかし、それは閃きがあった後の言語化作業であって、言説による筋道立てた説明があったとしても、問題解決に無意識領域が関与していなかったことの証明にはならない。
次元展開と、その極限が得られるまでの時間は、ときには一瞬である事だってあり得る(仮定)

さて、このような意識領域と無意識領域の間の連携の極限として(あるいは問題下降の無限遠点に)、ある客観、主観の束縛を逃れた客観が無意識領域に生じることがあるというのが安部公房の考えだと思われる。謂わば、意識領域と無意識領域の共同作業、あるいは正のフィードバックサイクルが回って、その無限回の果てに純粋な結晶のような究極の客観が生成されるということだ。
難しいことを言っているようだが、必ずしもそうではない。主観的客観を積み重ねていくと、意識して言語化するのが難しい直観とか知恵とかが備わるというのは我々誰もが経験している。それは普段は無意識領域にあるが、なにかの事象が起きると意識領域に関与する。数学の問題の解法が閃くのも、将棋や囲碁においてある程度上達すれば、手を読む前に直感的に次の指し手が閃くのも、この種の客観と近いものだろう。このような閃きの瞬間、意識は無意識領域との境界にある「窓」から何かを得ているというのが安部公房のイメージなのだろう。「窓」を直視すれば鏡のように自分が映る。なぜなら意識領域は明るく、無意識領域は闇であるため、明るい方から見ると反射率が高くて自分がいる側の映像が反照するのだ。だが、その自分の姿に重なるようにして、何かの客観(第三の客観)が垣間見える、そんなイメージだろうか。

このような解釈からすると、無意識領域からの働きかけ、あるいは問題下降の無限の繰り返しというのは、時間をかけておこなわれるものではなく、時に一瞬のうちに行われるものなのかもしれない。


真理とは
僕の理解したところによれば、安部公房の考える真理とは、真偽の形式をとる主観のことだ。なんでもいい、主観に基づく真偽を表す命題はすべて(ひとまず)真理となる。では「1+1=3」も主観に基づけば真理なのだろうか?僕の理解によれば、これも真理である。ただし、安部公房は真理ににはレベルの低いもの(低次元)とレベルのが高いもの(高次元)があるという。
真理をいったん主観の一形態にしてしまえば、前節の「主観と客観」の関係が真理にも適用できる。すなわち、言葉遊びのようだが、前節の議論を真理に適用すれば、主観的主観の真理、主観的客観の真理、そして究極の真理(無意識領域に結晶のように作り上げられた真理)が存在するはずだ。主観が無意識領域との働きかけを経て醸成され(安部公房の表現では次元展開され)、やがては究極的な客観である真理ができあがる。

安部公房は「真理は心理の仮面である」と言っている。真理が主観の一形態である以上、その通りだろう。真理はそれぞれの人が持っている。人はそれぞれ独自の真理を持つ。どのような真理を持っているかによって人のあり方が規定される。こう書き下してみると、安部公房の小説世界に近づく。

真理が主観である以上、再帰の無限ループは発生しない。たとえば「真理は人間の憧憬である、という事の中には真理がある」という複文の内側と外側の「真理」は異なる。主観が階層構造を成している以上、それぞれの階層における概念はイコールではない。あるいは、一つの真理は次元を跨げない(真理は他次元の真理に干渉できない)とも言えるだろう。
安部公房の用いる「次元展開」の「次元」というのは我々が親しんでいる座標軸の次元とはちょっと違う。この「次元」は思考の階層のようなものを表している。ちょとした考えが1次元だとすると、その考えを材料にもうすこし深く考えて昇華した考えが2次元であり、この階層をどんどん積み重ねていくと、より高尚な真理が出現する。
ここまでを体系的に纏めると、こういうことだ。
客観は主観に従属する。ただし主観の次元展開の結果得られる究極の客観というものが存在する(当然、究極の客観が生まれると同時に、その客観を生み出した究極の主観が存在している。なぜなら客観は主観が生み出すのだから)。
真理は主観の一形態である。

安部公房の考えは、つまりこういうことなのだろう。主観がある。これは疑いようもない。主観が届かぬ場所がある。これも疑いようがない。主観=外面とすれば、主観が届かぬところを内面と呼ぼう。彼が認めるのは、この内面と外面との存在だけだ。ここから、彼は哲学を展開する。客観とは主観の一形態だ。真理も主観の一形態だ、と。じゃあ、なんで我々は今まで客観とか真理を高尚なものとして崇拝していたのか?いや、実は客観とか真理が高尚なのではなく、主観の絶えざる反復(次元展開)の結果生まれる究極のものが高尚なのだ、と。高尚な客観、高尚な真理とは、究極的な主観が生み出した結果に過ぎない。そして、この次元展開に不可欠なのが無意識領域(内面)なのだ。我々が道具として使えるのは外面に存在する主観のみだが、決して主観が届かぬ無意識領域(内面)こそが、次元展開を生み出す大いなる原動力となるのだ。

言葉が悪いが、客観も真理も、その人がどのくらい主観を次元展開したかによって、自ずとレベルが異なるわけだ。
この結論は、ちょっと厳しい側面がある。主観しか認められていない以上、借り物の知識、他人から与えられた知識などは、肥し程度にはなるものの、究極的な客観を得るためには大して役立たない。大切なのものは、自分の中にある。絶えざる主観の次元発展こそが重要ということだ。要は、自分の頭で考えなければ何も生みさせないということになる。徹底的に自分の頭で考え、思考を積み重ね(つまり次元展開を十分重ね)、その結果として我々は究極の真理を掴むことができる。

ここまでで気づいたのは、安部公房の意識は、内へ内へと向かっているということ。

安部公房は「真理は人間のあり方である」と述べる。真理は主観のうち、真偽の形態をとる命題だとすれば、さもありなんといったところだろう。何を真理とするかによって常に人間は問われている。
「第三の客観(究極の客観)とは、正しき主観の上昇的次元展開の極限であった。そして此処には一種の詩的体験が必要なのである」
この文章は、無限の主観の階層的繰り返しを成すためには、一種の閃きというか、無意識領域の助けというか、そういう主観(これは外面に存在する)の無限回の繰り返しを実時間で終える必要がある。無限の航行を可能にするには、ワープ航法というものがあるが、それと似たような役割を果たしているのが意識領域と無意識領域の境にある「窓」であろう。「窓」から何かを触発される。それを安部公房は「詩的体験」と言ってる。(贋岩田氏の解説にはそう明示的には書いてないけれど)。
「世界内ー在」と「世界ー内在」
「即ち、この世界内ー在と世界ー内在との一致した諸々の次元展開の極限に於いては、客観と真理とは、単に人間の在り方の表現的相異として認識せられるのである」

フッサール的な「世界内ー在」と「世界ー内在」という言葉が唐突に出てきて、その意味がよくわからないが、言葉の感覚から捉えられる意味は次の通り。ただし仮の解釈とする(これは僕の知識不足が原因)。

主観は世界を捉え、世界のうちに自分があると捉える。同時に世界はすべて主観の中にある(主観以外の方法で捉えることはできない)。このような構造の世界において、客観と真理は、主観の一形態であり、究極的には同一のものになる(第三の客観=究極的な真理)。ここで、「世界はすべて主観の中にある」としたが、もしかすると「世界はすべて内面(無意識領域)の中にある」という意味なのかも。
この考え方は、哲学ではどう位置づけるのだろうか?フッサール的な用語が出ているという事は、認識論的存在論に属するのだろうか?
贋岩田氏の解説によると、この「世界内ー在」と「世界ー内在」はループを形作っているという。世界の中に我があって、我の中に世界があって、その世界の中に我があって、・・・ということなのか?この理解のためには、哲学関係の知識が必要か。いずれにしても世界認識にあっても、無限が関係しているのは興味深い。

フッサールじゃなくてハイデッガーの用語とのこと。知識不足が露呈(苦笑)。

しかし、あながち僕の解釈は間違ってないのかも。主観(外面)と主観が届かぬ無意識領域(内面)から議論をスタートした以上、世界をどこに位置づけるかといえば、こうことになるはず。すなわち、世界の中に自分は存在しているという体感。この体感は主観が作り出す。そして同時にその世界とはすべて主観が捉えているといるのだという事実がある(我々は主観の存在を認めることからスタートしたのだから)。この関係がまずあって、一方で主観は次元展開によりどんどん展開していくわけだから、この「世界の中に自分は存在しているという体感、そして同時にその世界とはすべて自分が捉えているという事実」もその展開に巻き込まれてしまうわけだ。
ここまでの安部公房の結論。僕の理解とそれほど矛盾はしていないように思える:
「かくて総ての現象表象は、唯一つの人間の在り方の次元的循環に回帰するのだ。そして此の事を更に明確ならしむる為、吾等は<<人間の在り方>>を、その表象並びに内容について更に批判展開せねばなるまい。」

ここまでで思ったこと。次元展開という主観(外面)と無意識領域(内面)との構造を軸にしてより高次元に展開していくという発想は、ニーチェの超人思想と通じるものがあるのではないか。存在が静的ではなく、進むべき方向性(次元展開)を持っているという部分に、バイタリティー(生のエネルギー)を感じる。

なぜ、無意識を無意識と言わず、夜と言うのか?
「無意識」という言葉は「無・意識」なので、意識が先行して始めて存在するような語感がある。そうではないのだろう。先の氷山のたとえのように、意識領域は無意識領域なくしてはあり得ない。意識は無意識の存在を検出できたけれども、検出したものは意識が届かぬところなのであって「意識がないところ」ではない。安部公房は「夜はかくあらしめるもの」だという。つまり主観(意識)を支えていて、ときに働きかけるものということだろう。
また、「無意識」という用語が、フロイトやユングにより使用されていて、また別の意味合いを持っているために避けたという考えもできるだろう。
安部公房の議論は、主観(外面)と主観がとどかぬもの(内面)という構造から始まった。主観が観測できないものを主観で表現するというのは、論理破綻のリスクがある。だが、そのリスクを背負っているからこそ、本来観測できないものをどうにかして観測してやろうとする文学を生み出すのではないか。

安部公房の理論構築は科学的態度とも言える。「夜」の存在を仮定することにより理論を打ち立てた。この理論を使って、あらゆることが説明でき、新たな知見を提示することができるならば、科学領域においてその理論は支持され続ける。安部公房が詩人から小説家に転じたのは、直観よりも科学的態度を優先したからなのではないか。

[Mian Xiaolin]

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