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2017年1月3日火曜日

『デンドロカカリヤ』論 (前篇)


『デンドロカカリヤ』論
(前篇)

目次

1。二つの『デンドロカカリヤ』
2。「問題下降」とは何か
3。3回の問題下降と結末継承の分析
4。3回の問題下降で、安部公房は一体何を成し遂げたのか
5。結末継承と結末共有
6。結末継承から見る安部公房の作品の系譜
7。結末共有から見る安部公房の作品の系譜
8。冒頭共有から見る安部公房の作品の系譜
9。結論:安部公房の文学とは一体何か

*******

1。二つの『デンドロカカリヤ』
『デンドロカカリヤ』には二種類あります。一つは、全集によれば「雑誌「表現」版」と呼ばれてゐるもの、もう一つは、「書肆ユリイカ版」と呼ばれてゐるもの、この二つです。

便宜上、前者を『デンドロカカリヤA』と呼び、後者を『デンドロカカリヤB』と呼ぶことにします。前者の発行は1948年8月1日、安部公房25歳の時、後者の発行は1952年12月31日、安部公房28歳の時です。この二つの作品の間に、『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞してゐます。

二つの『デンドロカカリヤ』の関係を整理するに当たつて、その前後も整理をしました。即ち18歳の時の論文『問題下降に依る肯定の批判』から『デンドロカカリヤB』までを時系列に配置し、安部公房の常としていつも理論と実践を繰り返しますので、これを念頭に置いて、上段に理論に当たる作品を、その下に実践に当たる作品を置きました。それが、この図です。

全体図


左半分


右半分


この図は、次のURLでダウンロードできます: https://ja.scribd.com/document/335110940/詩人から小説家へ-v4 


この図を作成しながら、また作成した結果、この図からわかつたことを以下に述べます。この 論考の記述の順序は、私が安部公房の創作の秘密を解き明かして行く過程そのままです。どうか、私の思考プロセスにおつきあひ下さい。 

詳細な説明に入る前に、この図を概観して知ることは次のことです。 


2。「問題下降」とは何か
「問題下降」といふ18歳の時に名付けてゐた此の概念は、安部公房を理解するために、実に重要な概念でした。

問題下降といふ概念を一番解り易く言へば、次の通りになります。

問題下降とは、哲学用語を使つて書いた認識の世界を、日常生活の中で普通に理解できる用語で垂直方向に書き直す行為、即ち其のやうに下方に向かつて下ろして行く行為である。

前者の認識の世界は、全集第1巻の最初に収録されてゐる、安部公房が18歳の時に書いた『問題下降に拠る肯定の批判』の中で「遊歩場」と呼ばれる、安部公房独特のtopology(位相幾何学)の道といふ線(一次元)又は帯(二次元)によつて描かれる(後者ならば特に視覚的にはメビウスの環)、交易または交換のための道であり、位相幾何学的な一筆書きの世界なのです(全集第1巻、12ページ下段から13ページ 上段)。[註1]

[註1]
以下に『株の道と安部公房の道』(もぐら通信第24号)より引用して、この位相幾何学的な道をお伝へします。

「安部公房の道は、既に18歳の時に書いた『問題下降に拠る肯定の批判』に、遊歩場と呼ばれる道として出て参ります(全集第1巻、12ページ下段から13ページ 上段)。遊歩場という18歳の少年の命名は、そのまま後年の安部公房の文学の世界の本質をそのまま言い当てています。(略)

この安部公房の道は、「他の道とははっきりと区別されて居なければいけない」 のであり、この「遊歩場は二次的に結果として生じたもの」であり(晩年のクレオー ル論を読んでいるような気持ちがします。同じ発想です。既にこのとき安部公房の クレオール論は完成していたのです。)、「第一に此の遊歩場はその沿傍に総ての 建物を持っていなければならぬ。つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけない のだ。それは一つの具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念でなければな らぬ。第二に、郊外地区を通らずに直接市外の森や湖に出る事が出来る事が必要だ。 或る場合には、森や湖の畔に住まう人々が、遊歩場を訪れる事があるからだ。遊歩 場は、都会に住む人々の休息所となると同時に、或種の交易場ともなるのだ。」と いう道なのですが、この文章を読むと、このとき既に、安部公房はtopology(位相 幾何学)という数学を知っていたのだと言う事が判ります。 

この道は、幾何学的な道であって、そこには時間がありません。」


後者の世界は、認識の世界に対して、理解の世界です。前者が理性による論理の世界であり、概念の世界、意義(sense)の世界であるのに対して、後者は悟性による、時間の中で理解可能な、概念の構成要素を分解して時間の中に一次元(線)または帯(二次元)に並べ、配置した具体的な物と事の名前を呼ぶ、即ち物と事の名前と形象とこれらに対応する意味(meaning)の世界であり、従ひ五感の世界です[註2]

[註2]
18歳の安部公房は、『問題下降に拠る肯定の批判』の中で、次のやうに後者の世界を書いてゐます。これが、安部公房の「もぐら感覚」です。

「動かなくてはならない。そして動かさなくてはならない。手を、指を、そして目と鼻を。今こそ君は自由なのだ。(略)
 今こそ、総ての判断は指で触れ、目で見た上で為されねばならぬ。其の時に始めて総てのものに価値が、一切のものは無価値であると云う判断にすら価値が生じて来るのである。その日から真の歴史は書かれ始めるのである。その時にこそ、太陽は輝き始めるのであろう。」(全集第1巻、15ページ)


前者については、部屋、窓、反照、自己承認(または証認)といふ4つの用語と概念で、自分の宇宙を創造し、その全体を記述した安部公房のことを思ひ出して下さい。これら4つの用語と概念と、これらの相互の関係については、次の論考で論じましたので、お読み下さい。

(1)もぐら感覚4:触覚(もぐら通信第2号)
(2)もぐら感覚5:窓(もぐら通信第3号)
(3)もぐら感覚6:手(もぐら通信第4号)
(4)もぐら感覚12:夜(もぐら通信第12号)
(5)もぐら感覚18:部屋(もぐら通信第16号)
(6)もぐら感覚19:様々なと窪み(もぐら通信第17号)
(7)もぐら感覚20:窪み(もぐら通信第18号)
(8)安部公房の奉天の窓の暗号を解読する(後篇):もぐら通信第33号)

また、後年、安部公房は「問題下降」をする対象のことを投影体[註3]と呼んで、同じことを読者に伝へてゐます。従ひ、「問題下降」はもともと数学的な写像の概念でもあり、方法でもあつたといふことになります。即ち、問題下降という用語そのものが、問題下降によつて再帰的に名付けられた名前であつたといふことになります。これは、如何にも安部公房らしい。

[註3]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より、投影体と写像(mapまたはmapping)について以下に引用します。

さて、詩という藝術がそのようなものだとして、安部公房が普通のリルケの読者と一線を画しているのは、リルケの詩を抒情的に読まなかったということ、そうでは全くなく、その数学的な頭脳を以って、実に論理的に読んで、自家薬籠中のものにしたこと、上に述べたようにリルケの物に関する考え、即ち物に与えられ名付けられる言葉についての考え、更に即ち、言葉の概念が関数であり、従い機能であり、媒介であり、媒体(medium)であるということを、19歳の時には既に十分過ぎる位に理解していたことなのです。[註2]

(略)

[註2]
安部公房は後年、リルケを情緒的にではなく論理的に理解したことを次のように述べています(全集第24巻、143ページ下段から144ページ上段。「〈書斎にたずねて〉」)。1973年、安部公房、49歳。

「ぼくの初期作品について、よくリルケの影響を指摘されるけれど、リルケが自分の中で大きな根をおろしていたのは戦争中だ。リルケというのは非常に叙情的な面を持っているし、平気でぬけぬけと叙情におぼれるところがあって、そういう面はその後とても嫌いになった。ただ、リルケの持っている目に、以外と「物」に強くこだわる面があった。いろんな概念や観念の背景に必ず「物」が媒体にならなければ成り立たないという姿勢があって、それがとくに、戦争中のまわりの精神構造に対するアンチテーゼになってくれたんだな。だからある意味で、「物」とか「存在」ということに意識を集中させることで、時代の暗さを切り抜ける方法を求めていたのだと思う。あの時代、手に入るぎりぎりの範囲で支えになり得るものといったら、やはりそれしかなかったんだ。」


このようなこの「物」を、安部公房は「投影体」と呼び、箱、壁、砂をそのような例として挙げております(1985年のインタビュー『方舟は発進せず』。全集第28巻、58ページ)。「投影体」とは、数学的には写像(map=地図)の問題であり(例えば『燃えつきた地図』)、言語論的文学的には、ある体系の中のすべての語彙をどうやってもう一つの体系の語彙へとすべての対応関係(correspondence)を失うことなく変換するかという翻訳の問題であり、また変形(transformtopology=位相幾何学)の問題でもあります。


上記[註3]の中にある[註2]を読めば、言語論的文学的には、

問題下降とは、ある体系の中の高次元の概念関係と其のすべての語彙を、もう一つの低次元の体系へと、垂直方向に、前者の体系のすべての対応関係(correspondence)を失うことなく連続的に、後者の個別の意味関係と其の語彙に翻訳する事である。

と云ふこともできます。

これは、topologyです。

これを、私の云ひ方で一言で云へば、既にもぐら通信誌上にて複数回書いたやうに電子計算機のためのOSといふ言葉を使つて、

問題下降とは、二十歳の時に完成した『詩と詩人(意識と無意識)』と云ふ安部公房のOS(Operating System)を、投影体として存る対象にinstallして、時代の要求に応じて、個別のソフトウエア・アプリケーション・プログラム、即ち作品を開発する事である。

と云ふ事になります。

何故ならば、『詩と詩人(意識と無意識)』といふOSそのものが、詩と詩人のあり方を主題として、上に述べた4つの用語と概念の関係を論じた、安部公房の人生の基礎論文であるからです。

このやうに考へて参りますと、安部公房はエンジニアとなんら変はらないのです。即ち、『詩と詩人(意識と無意識)』といふOSの基本設計図を描き、あとは、高次元の哲学的な用語を用ゐた作品を概要設計図として描き、これを更に次元を落として具体的な詳細設計図を描いたと云へるからです。

エンジニアは、基本設計図をを3つまたは4つの基本的な用語と概念で記述をし、概要設計図では機能設計を行い、詳細設計図では機能設計のための仕様に適つた具体的な部品の試験をして、上位の設計図通りに機能するかどうかを確かめて最初の検証をしてから、砂や顔や地図や箱や病院や洞窟やノートブックといふ投影体を実際に組み立てるための仕様に適合した部品を調達して、組み立てて製品が完成した後に、出荷前に品質欠陥が、即ち構造上の設計欠陥がないかどうかを最後に検証してから、出版社から出荷するといふ訳です。

ですから、安部公房がチェニジーといふ雪道用のタイヤ・チェーンを発明して西武自動車から商品として販売したり、この発明を更にスイスの国際発明展に出品して銅賞を受賞したりといふのは、安部公房の中では、同じ事なのです。


3。3回の問題下降と結末継承の分析
この図から、更に詳細にわかることは、次の通りです。

3。1 3回の問題下降
問題下降を中心に、この図を眺めると次のことがわかります。勿論、この図は、私が考へを纏めてから図にしたものですから理解しながらの作図の順序(作図者の順序)と、この図を読む順序(読者の順序)では、その方向が反対になることをご留意下さい。この図は果実です。

安部公房は、

(1)二つの詩集の間で問題下降をしたこと。
(2)詩と小説を統合するために問題下降をしたこと。この場合、
(3)二つの異質のものの統合が問題下降によって難しいと判断した場合には、その間に中間項の作品を置いて、これを成し遂げたこと。(中間項を挿入するといふ発想は全く数学的で、安部公房らしい。)このとき、問題下降の持つ目的と其の性格から言つて、どうしても抽象的な用語を使用しなければならないので、中間項には哲学的な小説とエッセイの二つがあること。そして、
(4)同じ小説の領域でも、処女作(『終りし道の標べに』)と其の次の小説(『デンドロカカリヤA』)の間で、再度の問題下降によつて、これを徹底し、後者の叙情性を「蒸溜」(『世紀の歌』)[註4]して、『赤い繭』や『魔法のチョーク』の持ってゐる乾いた文体を自分のものとしたこと。
(5)『S・カルマ氏の犯罪』は、『魔法のチョーク』からの、後述する結末継承による直接の作品であるといふこと。そのあとに芥川賞を受賞し、そのあとに、
(6)『S・カルマ氏の犯罪』と同じ、しかし上記(4)に言及した蒸溜法により、シャーマン安部公房の秘儀の式次第によつて、『デンドロカカリヤA』を『デンドロカカリヤB』に書き直したこと。
(7)上記(4)と(6)が、二つのデンドロカカリヤの関係についての説明であり、何故安部公房は同じ作品を書き直したのかの説明です。

上記(7)の考へ方は其のまま、何故安部公房は『終りし道の標べに』を後年書き直したかの説明になってゐます。

『終りし道の標べに』でも、真善美社版では頻出する哲学用語が、冬樹社版ではすっかり消えてをり、ここでも問題下降によつて冬樹社版を書いてゐることがわかります。普通の作家の不満足が原因の書き直しとは、その動機が、全く異なつてゐて、論理的であり、数学的です。

[註4]
『世紀の歌』は、次の詩です。安部公房が詩人から小説家にならうと努力してゐる極く初期の、中田耕治さんと二人で立ち上げた「世紀の会」のために書いた詩です。『デンドロカカリヤA』を書いた1949年4月20日のほぼ一月前の詩です。

「ぼくらの日々を乾かして
 涙の壺を蒸溜しよう
 ミイラにならう
 火を消すものがやつてきたら
 ぼくら自身が火となるために!」
(全集第2巻、230ページ)

詩の中にある『涙の壺』とは、若き安部公房が愛唱したリルケの詩です。

この詩については既に「『魔法のチョーク』論」で詳細な註釈を付しましたが、煩を厭はずに、また読者の手間を省くためにも、さうして安部公房を理解することの方が大切ですから、再度ここに引用して長い註釈とします。ご記憶であれば飛ばしてくださって結構です。


「『涙の壷』
Tränenkrüglein 

Andere fassen den Wein, andere fassen die Öle
in dem gehöhlten Gewölb, das ihre Wandung umschrieb. Ich, als ein kleineres Maß und als schlankestes, höhle mich einem ändern Bedarf, stürzenden Tränen zulieb. 

Wein wird reicher, und Öl klärt sich noch weiter im Kruge. Was mit den Tränen geschieht? Sie machten mich schwer, machten mich blinder und machten mich schillern am Buge, machten mich brüchig zuletzt und machten mich leer. 
(http://www.textlog.de/22406.html) 

安部公房は、何度かこのリルケの詩『涙の壷』に言及して、自分の所説を述べている箇所があります。 

今その箇所を詳らかにすることができませんが、将来この壷を論じるための準備として、ここに訳出し、解釈と 鑑賞を施すことにします。 

【散文訳】 

他の者たちは葡萄酒を摑み、他の者たちは油を摑む 
これらの者の囲壁を一定の範囲で囲っている、この中空になった丸天井の中で 
わたしは、より小さな尺度として、そして最も痩せたものとして、 
わたし自身を穿って、中空にし、窪ませて、他の欲求を満たすものとなす。墜落する涙のために。 

葡萄酒はより豊かになり、そして油は壷の中でより清澄になる。 
涙には何が起きているのだ?―涙は、わたしを重たくした、 わたしを目くらにした、そして、わたしの足の関節を玉虫色に光らせ、わたしを遂には破れやすい脆(もろ)い ものにし、そして、わたしを空にしたのだ。 

【解釈と鑑賞】
この詩は、何を歌っているのでしょうか。

第1連で歌われているのは、わたし以外の他の人々の行為です。 ひとつは、葡萄酒を摑み、ふたつは、油を摑むというのです。 

リルケの最晩年の傑作二つの詩作品『オルフェウスへのソネット』であったか、『ドィーノの悲歌』であったか の一節に、やはり壷と、これら葡萄酒と油のことが歌ってある一節があります。これを読むとリルケは、葡萄酒 の壷や油の壷で、人間の文明が誕生して、都市が生まれて、社会が生まれ、そこで交易をして生活をする、その ような生活の豊さを表すものとして、この二つを使っています。 

これと同じ理解をここでも適用することで、この第1連は理解することができます。 

しかし、わたしは、そのような都市や人間の生活の豊かさを享受する者ではない。そうではなく、全く逆に「墜 落する涙のために」いる者だとあります。 

「墜落する涙」とは、涙を流しながら墜落してゆくということであり、そのように墜落するときに涙を流すという意味でしょう。

この涙を流すと、人間は墜落するというのです。そして、それは、「他の欲求のために」墜落するのです。この 「他の欲求」の他とは、わたし以外の他の人々の欲求とは異なってという意味です。即ち、わたしは、葡萄酒や 油の壷を手にしないのです。 

そして、この欲求に身を任せると、自分自身が空になり、窪みになる。 

この空になり、窪みになるという形象(イメージ)は、10代の安部公房がリルケを読み耽って我がものとした 形象のひとつです。この窪みが、後年『砂の』女の砂の穴という窪みに成長します。 

第2連では、そのようなわたしと社会との関係が歌われています。 わたしが空になればなるほど、窪みになればなるほど、社会の、都市の葡萄酒と油は、より豊になり純度が増す。 

これに対して、全く反対に、わたしの身に起こることは、 

「涙は、わたしを重たくした、 わたしを目くらにした、そして、わたしの足の関節を玉虫色に光らせ、わたしを遂には破れやすい脆(もろ)い ものにし、そして、わたしを空にしたのだ。」 

とあるようなことになります。 

この詩の題名は、邦題は『涙の壷』ではありますが、ドイツ語では、Traenenkrueglein、トレーネン•クリュー クライン、ですので、正確に言えば、涙の小さい壷、涙の小壷という意味です。 

つまり、リルケは、このわたしは、葡萄酒の壷ではなく、油の壷でもなく、涙の小さな壷だといっているのです。 それが、わたしである、と。 

しかし、そのようなわたしは、他の人々よりもより小さな尺度であり、最も痩せたものでとしてあるのです。即 ち、この測定者としての小さな存在であるわたし、そして、そのような存在として社会に対してある最も痩せた ものとしてのわたし、リルケはこのようなわたしを『涙の小さな壷』と呼んだのです。 

10代の少年安部公房は、この詩をこのように誠に正確に理解したことでしょう。繰り返し、後年引用するほどに。

翻って、第1連を読みおすと、わたし以外の、社会の中に生活する豊かな人々の周囲には壁が巡らされているこ と、そうして、その壁の上には、中空の丸天井があって、わたし以外の他の人々は、その天井の下で生活してい ると歌われています。 このリルケの歌った都市の生活の抽象的な表現についても、少年安部公房は、よく理解をしたことでしょう。 

18歳の安部公房は、そのような社会を、『問題下降に拠る肯定の批判』と題した論文の中では、社会は「蟻の 巣」だと書いています。その蟻の巣である閉鎖空間から脱出するために、安部公房自身もまた涙の小さな壷にな ろうと決心したのです。 

この詩には、既に『赤い繭』や『デンドロカカリヤ』の種子が胚胎しています。そういえるならば、『砂の女』 や『他人の顔』の種子もまた。 

ちなみに、このリルケの詩について、1948年7月4日付で、安部公房は中田耕治さんに次の手紙を送つてい ます。 

「しかし若し僕が想像するように、君が割切れた合理的な仮面(?)の背後に、弱々しい、余りにも感じ易い、 例えば跪いガラスの鉢、リルケが歌つた涙の壺のような眼を隠してゐるのだつたら、僕はさう思へてならないの ですが、僕等は今後もつと別なやうに、今までとは異つたやうに話し合つたはうが良くはないかと思ふのです。」 (『中田耕治宛書簡第1信』全集第2巻、50ページ上段) 

また、安部公房の10代の詩集『没我の地平』所収の詩『詩人』と題した詩の最終連に、リルケの『涙の壺』を 念頭において書いた「悲哀の壺」といふ言葉が出てきます。(全集第1巻、157ページ)。 

「この様に
 外の面が内を築きあげ
 移ふ生身で悲哀の壺に
 歓喜の光を注ぎつゝ
 久遠の生に旅立つ事が
 吾等詩人の宿命(さだめ)ではないのか」
(全集第1巻、157ページ)

また、『S・カルマ氏の犯罪』の中に、リルケの『涙の壺』や自らの詩の中にあつて上の詩のやうに歌はれたの と同じ動機(モチーフ)による次の詩がある。これが、安部公房の「革命歌」であることは、この詩の後の次の 行でS・カルマ氏の世俗社会の中での名前である名刺が「「そんな革命歌なんてあるものか!」名刺はますます腹をたてて叫」んだとあることで明らかです。リルケの「涙の壺」は、安部公房を介して、安部公房の共産主義 (コミュニズム)の理念の中に生き続けたのです。 

「おれは水蒸気の中で殺されて 丸くなった。 しかし饅頭ではない、 なぜなら中味が空っぽだからだ。」 (全集第2巻、413ページ上段) 

この『S・カルマ氏の犯罪』といふ作品は、1951年の作品です。安部公房は、当時中田耕治さんと二人で立ち 上げた「世紀の会」のための宣言書として、『世紀の歌』といふ題の詩を1949年に書いてゐます。後者は、 生きてゐる人間のために涙する詩人の涙の蓄へられる壺と、詩人自身が其の壺になつて、即ち自己が空虚な壺に なつてゐる其の自己との関係を歌つた同じ主題が、しかしもっと涙をを中心の主題にして、これからは「日々」 の時間を「乾かして」「涙の壺」を、即ち涙を乾溜すべきことが、それによつて空間的な空虚の壺を、自分自身 がミイラになる其のやうな壺である自己を創造することが歌われてゐます。この詩は次のやうな詩です。「涙の 壺を蒸溜」するための「火を消すものがやつてきたら」自分自身がミイラになる其のやうな壺である自己を創造 することが歌われてゐます。 

「世紀の歌 
ぼくらの日々を乾かして 
涙の壺を蒸溜しよう ミイラにならう 
火を消すものがやつてきたら 
ぼくら自身が火となるために! 
[1949.3.15]」 

『世紀の歌』と『S・カルマ氏の犯罪』の2年ほどの間に、安部公房の上記のやうな詩人から小説家への進境が あります。丁度この努力の中間地点に、『牧神の笛』といふ、詩人から小説家への此の進境にかける決意と覚悟 を示した1950年の作品が位置してゐます。安部公房は自らが火になる覚悟をし、「涙の壷」を蒸留して、乾 かせて、1951年に『不思議の国のアリス』に出逢つて、散文家としての乾いた明るい、日本共産党員になる 以前に於いての乾いた文体を獲得するのです。日本共産党員の10年を閲した後に、この乾いた文体はもつと進 境して、その後の小説の世界で読者に馴染み深い黒い笑い(ブラックユーモア)の横溢する典型的な安部公房の 文体になります。この経緯の詳細は、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)に詳述しましたのでご覧 ください。 

さて、長い註釈とはなりましたが、『魔法のチョーク』(1950年12月1日)は、このやうに、その前に書 かれた『デンドロカカリヤ』(1949年8月1日)と同様に、安部公房の散文としての『涙の壷』であり、『赤 い繭』(1950年12月1日)もまた同様であつて、この時期の安部公房の努力と散文家への確かな方向を示 してゐるのです。その根底には、しかし、リルケの詩想のみならず、他方論理的には位相幾何学のあることは、 いふまでもありません。 

[註1.1] 
「安部公房の心の穴」と『涙の壺』といふ詩について 

『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より、標記に関係して[註13]を次の通り引用して、「涙の 壺」を巡る大切な事柄をお伝へします。

「ナンシー・S・ハーディン(シールズ)との対談で、安部公房は、その旺盛な創作活動の由って来るところは何 かと訊かれて、次のように答えています。1973年、安部公房49歳 

「創造力はある意味での欠乏から発生するのではないかという気がします。いわば「油切れ」と同じようなもの からね。それはネガティヴな圧力であり、一種の空虚であるわけです。もっと具体的に説明するために、二人の 作家の名前を挙げましょう。エドガー・アラン・ポーとフランツ・カフカです。二人とも同じネガティヴな感覚 を共有していたようにぼくには思われるのです。これは、ぼく自身の問題だけではなく、むしろ他人が何を望ん でいたかという問題です。だれしも心の中にからっぽの穴が空いている。そして、できるなら、ぼくはその穴を 埋めたいのです」(『安部公房との対話』ナンシー・S ・ハーディン。全集第24巻、468ページ。) 

(略)

この詩を読むと、『S・カルマ氏の犯罪』の前の『デンドロカカリヤ』(1952年12月)も、その後の『赤い繭』や『魔法のチョーク』(共に1950年12月)も、安部公房の同じ生理感覚と論理の上に成り立ってい ることがわかります。 

そして、そればかりではなく、論理と生理的感覚としては、それ以外のすべての作品に、安部公房の変形の論理 と一緒に、この空虚のあることがわかります。 

(略)

安部公房は、このインタビュアーに心をゆるし、思わず、 

「これは普通人に話したりしないのですが、ぼくは満洲生まれで、そこは冬がとてもきびしいところでした。」 と始めて、自分にとってエドガー・アラン・ポーがどんなに大切な、最初に物語の本質を教えてくれた作家であ るかを述べています(全集第24巻、475ページ下段)。ルイス・キャロルは、ポーの次に好きだとも、言っ ております。 

一読をお奨めします。」 」


まとめますと、

(1)詩集『没我の地平』を問題下降したのが、詩集『無名詩集』であること。中間項は、エッセイ『様々な光を巡って』。[註5]

二つの詩集の詩の題名を以下に引用して比較をすれば、一目瞭然、前者は哲学的な主題を正面から取り扱つてゐること、後者は其れを次元を落として易しくしてゐることがわかります。

『没我の地平の目次
没我の地平
詩人
理性の倦怠
没落
実存―幼き日
人間
迷ひ
夢と夢
主観と客観
言葉の孤独
時間と空間
実存
思念の黄昏
森番
仮眠
別離
誓ひ
光と影

『無名詩集』の目次
笑ひ
祈り
マスク
防波堤
孤独より(十一章)
リンゴの実
嘆き(六章)
その故か
別れ
倦怠
感傷
ソドムの死
詩の運命(エッセイ)

[註5]

リルケの『形象詩集』を読む(連載第2回):『Aus einem April』(四月の中から(外へ))』(もぐら通信第31号)[註3]より引用して、安部公房が、どのやうな当時の状況の元に、『没我の地平』を問題下降して『無名詩集』を編んだかをお伝へします。

[註3]
(略)
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より抜粋します:

「詩については、『第一の手紙~第四の手紙』で「詩以前」を論じています(全集第1巻、191ページ下段)。この散文を書いた1947年、安部公房23歳の時には、既に詩人安部公房にとっての危機と転機の時期が訪れていたのです。前年1946年には満洲から引き揚げて来て、日本に帰国した翌年のことです。このときの危機は、詩人としての危機でした。

この危機をこのように『第一の手紙~第四の手紙』で存在論的に思考して考え抜いて乗り越えて同じ歳に出版したということが『無名詩集』の持つ、それまでの10代の「一応是迄の自分に解答を与へ、今後の問題を定立し得た様に思つて居ります」(『中埜肇宛書簡第9信』。全集第1巻、268ページ)と10代の哲学談義をした親しき友中埜肇に書いた『無名詩集』の持つ、安部公房の人生にとっての素晴らしい価値であり、安部公房の人生に持つ『無名詩集』の意義なのです。


これを読むと、『第一の手紙~第四の手紙』もまた、エッセイ『様々な光を巡って』と同じ1947年1月に書かれた、小説としての中間項であることがわかります。


(2)処女作『終りし道の標べに』を問題下降したのが、短編小説『デンドロカカリヤA』であること。中間項は、『名もなき夜のために』。それ故に、後者は前者の、後述する「結末継承」をしてゐる。即ち、前者の結末を、後者の冒頭が継承してゐる。

『名もなき夜のために』の中に安部公房は、詩集『無名詩集』を(リルケの『マルテの手記』を主題として)其のまま取り込み、且つ小説『終りし道の標べに』を問題下降して、詩と小説の二つを融合して『名もなき夜のために』を『デンドロカカリヤA』の中間項となしたこと。

それ故に、『デンドロカカリヤA』は、冒頭からリルケに倣つた叙情的な文章になつてゐること、これは間違ひなく、安部公房が上記の理由で明瞭に意識し、明確に意図したことであること。

このリルケ風の要素を取り去ったのが、『S・カルマ氏の犯罪』の後に、同じ文体で書き直した『デンドロカカリヤB』であること。これは、垂直方向の問題下降ではなく、水平方向の書き直しであること。

(3)『デンドロカカリヤA』を問題下降したのが、『赤い繭』と『魔法のチョーク』であること。特に後者は、後述する「結末継承」によつて、『S・カルマ氏の犯罪』へ直接接続し、後者によつてシャーマン安部公房の秘儀の式次第が継承される作品となつてゐること。

このあと、この図の最後にある1953年といふ安部公房の藝術家人生最悪の年に、小説はやつと『R62号の発明』だけを書くことができて、以後日本共産党に距離を置きます[註5]

[註5]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用して、この事情の前後をお伝へします。詳細は『安部公房と共産主義』をお読み下さい。

「1955年2月25日の『猛獣の心に計算機の手を』を書いたあと、このエッ セイでの確信はほぼ揺らぐことなく、1958年10月1日の柾木恭介との対談「詩人には義務教育が必要である」(全集8巻、178ページ)では、「詩というジャンルはすでに死滅し たジャンルだね」と断言していて、既にこのときには、完全にマルクス主義の影響から脱して いることがわかります。 」
(略)
そして、この1950年代の後半の志向は、ドキュメンタリー(記録藝術)とミュージカルに 向かいます。この志向は、明らかにそのまま1970年代の安部公房スタジオの活動につながっ ています。それは、安部公房のドキュメンタリー(記録藝術)の考えを読みますと、そのこと が判ります(『ドキュメンタリー - 現在の眼』、全集第7巻、110ページ。1957 年)。 

このドキュメンタリー(記録藝術)という言葉との関係で、1955年の前と後の違いを一言 でいえば、これ以前には、現実に対して法則的な必然を求めたのに対して、その夢から覚めた 後には、終生、現実に対して偶然を、現実的な偶然とその偶然的な相矛盾する諸要素の互いに 自律的で且つ総合的な表現を求めたと簡潔に言い切ることができます。[註3] 

[註3] 1950年代後半の、当時のドキュメンタリズムの思潮と安部公房のドキュメンタリーについての考えは、信州大 学友田義行先生の『文学と映画の《偶然性》論 花田清輝・安部公房を基点に』に詳しい(『フェンスレス』オン ライン版創刊号(2013/03/20発行)占領開拓期文化研究会)。:http://senryokaitakuki.com/fenceless001/ fenceless001_07tomoda.pdf
(略)

実際に、1953年は『R62号の発明』という短編小説以外の小説を書いておりません。し かし、『壁あつき部屋』という映画のシナリオを書いていて、ドラマ(drama)を構築すると いうことが、当時の安部公房のこころを救っていたということを想像することができます。全 集を読みますと、この日本共産党員であった時期の前半の5年間は勿論ですが(戯曲『制服』 『奴隷狩り』等)、しかし特に後半の5年間は、その量の多さから言って、戯曲(『幽霊はこ こにいる』等)と、それからラジオ・ドラマ(『棒になった男』や子供向けの『キッチュ・クッ チュ・ケッチュ』等)やTVドラマ(『日本の日蝕』等)という、即ちシナリオ(drama)を執 筆するということが、やはり安部公房のこころを救っていたのです。[註6] 

[註6]
1955年6月9日付で『戯曲をなぜ書くか』という座談会があります(全集第5巻、90ページ上段)。ここ
での安部公房の次の発言を読みますと、やはり、シナリオが、戯曲(舞台)と小説の間を繋ぐ、双方をひとつにまとめることのできるものとして、安部公房の作家生活を支えていたことがわかります。傍線筆者。

「安部 映画と戯曲の相違点では、時間よりもむしろ、空間の処理の仕方だね。時間的には戯曲とシナリオが近い、空間的に見れば小説とシナリオが近い。戯曲の空間的特徴としては、第一にむろんあの舞台の制約だけど、 もう一つ、そこに現されている対象が、完全に意識的に再構成されてたもの以外はないという点ですね、全部一 応人間の手がかかている......。反対に、映画や小説の場合は偶然が自由に入り込んでかまわない、というより それが特徴だ。芝居を書く面白さは、この相違点の自覚ということもありますね。芝居で役者がもっているあの 独特の意味は、あれもこの空間の特徴に根ざしているんじゃないか......。」 

安部公房はシナリオ(劇-drama-の脚本)を書くことによって、戯曲と小説の均衡を図り、二つの藝術領域の接続 を図って我が身を持し、その過程を経験し抜くことによって、後述するように、純情な詩人から辛辣な散文家に 変容したということになります。劇(drama)とシナリオは、それほど安部公房の人生にとって重要な意義を持っ ております。安部公房は、10代の時から世界を劇場と観ていました。劇が安部公房の人生にとってどれほど重 要であるかは[註21]をお読み下さい。 

さて、これら二つの作品以外には、『少女と魚』という戯曲があり、この三作だけが、この歳
の成果ということになります。『少女と魚』は、シュールレアリズムの作品で、1955年以
降安部公房が手を染める児童向けラジオドラマをここで既に先取りしております。

この無残な歳の成果をまとめますと、次のようになります。勿論、これらの作品が無残なので
はありません。これらの作品を構築する本来の安部公房の言葉と、現実に対したときの安部公
房の言葉が、かくも分裂しているということが、安部公房の苦しみの原因であり、その藝術活
動を貧しくした原因なのです。

(1)小説:『R62号の発明』。SF小説、即ち仮設設定の文学、自分独自の小説観に基づ いた小説
(2)映画のシナリオ:『壁あつき部屋』 (3)シュールレアリズムの戯曲:『少女と魚』。『壁』以来のルイス・キャロルに学ん だ、言葉の意味を捨象したnon-senseの文体の継続的な維持 
安部公房は、この最も苦しい1年の間にも、自分にとって大切な、この3つの領域は死守した のです。[註7] 

[註7]
安部公房は、この1953年という無残な歳の前後について4年後、次のように言っています(『抽象的小説の問題』。全集第7巻、154ページ)。1957年。安部公房33歳。傍線は筆者。

「安部 特に人間の心理とかということについて専門的に知りすぎてるわけですよ。ただ知識として知って るというよりもね、心理学の理論について学問的興味があり過ぎるんですよ。 もう一つは、コミュニズムとの接触だな。外面的な自由さを獲得すると同時に今までの内側の自由さとどう対応するかという衝突だな。「R62号の発明」(筆者註:1956年、山内書店刊の短編集)はだいたい一昨年ぐらいから今年にかけての全部を集めたわけです。一応そういう変化がこれに は出てると思うんですよ。これが終わると次は相当変わった姿勢に入る。これは「壁」から「闖入 者」(筆者註:共に1951年)までの時期の後なんですよ。一番悩んでた時期だな。 
佐伯 僕ら読者として読むと、作者が非常に楽しんで書いたものという感じだな。いろんなものを並べて 見せてもらったという感じが強いね。 
安部 そうじゃないんですよ。悪戦苦闘の時期でね。もっと勝手なことをやりたかった。」 

また、戯曲『少女と魚』にみられるシュールレアリズムへの愛着については、翌年『「壁」の空想力』(1954年11月15日)という短文のエッセイで、次のように言っています。傍線筆者。

「あれから、私の思想も作風も、かなりの変化をとげた。しかし、私は「壁」という作品集に、いまでも強い愛着を感じている。思いだすたびに、自分の空想力の豊富さに、われながら驚嘆するのである。批評のかわりに沈黙が待ちうけていたことも、至極当然だったと思わざるをえない。」(全集第4巻、415ページ)


3。2 結末継承の分析
結末継承とは、前作の結末を次作の冒頭で継承すること、後者の冒頭が、前者の結末であることを言ひます。

(1)『没我の地平』から『無名詩集』へ
   中間項:『様々な光を巡って』
   結末継承:「光と影」から「笑ひ」へ。
(2)『終りし道の標べ』にから『デンドロカカリヤA』へ
   中間項:『名もなき夜のために』
   結末継承:春の大地の土と新芽の出来。
(3)-1 『デンドロカカリヤA』から『赤い繭』へ
   中間項:『牧神の笛』
   結末継承:(topologicalな)道。中間項『牧神の笛』の結末は、牧神の自己の再帰的な変身の道(方法)。『赤い繭』の冒頭は存在へ至る再帰的な変形のための(topologicalな)道で始まり、結末は玩具箱といふ閉鎖空間で終わる。
(3)-2 『赤い繭』から『魔法のチョーク』へ
   ①中間項:『牧神の笛』
   ②結末継承:前者の結末は玩具箱といふ閉鎖空間で終わり、後者の冒頭は、部屋といふ箱または閉鎖空間で始まり、壁といふ存在の隙間で終わる。

上記(3)の1と2でわかることは、安部公房は、『デンドロカカリヤA』を問題下降させて、最初に書いた『赤い繭』が成功したので、次に続いて、『赤い繭』の終わりである玩具箱といふ箱を、『魔法のチョーク』の冒頭にやはり部屋を置いて此れを同じ結末として共有させて、同じシャーマンの秘儀の式次第を用ゐて、後者を書いたといふことである。作品間の結末の共有と継承があるといふことが知られる。

(4)『魔法のチョーク』から『S・カルマ氏の犯罪』へ
中間項:なし。理由は、『赤い繭』と『魔法のチョーク』で、作品の作法(構造化のプロセス)と此れに対応した文体が確立したから
結末継承:前者の結末は植物園、後者の冒頭は部屋。ともに閉鎖空間であり、箱である。即ち、この解釈は、前者の結末が、後者の結末になってゐることから、この両者の作品は同質、同値の作品と考えることができる。即ち、短編『魔法のチョーク』と長編『S・カルマ氏の犯罪』は、同じ天秤の両方の皿の上にあつて、平衡均衡してゐるのである。小林秀雄の『無常といふこと』といふ短編と『本居宣長』といふ長編の関係と同じだと云へば、ご理解戴けると思ふ。即ち、短編『魔法のチョーク』は、長編『S・カルマ氏の犯罪』のエッセンス(凝縮した本質)なのです。


4。3回の問題下降で、安部公房は一体何を成し遂げたのか
3回の問題下降で、安部公房は、詩と小説の統合と、それによつて生まれた『魔法のチョーク』の文体を獲得した。

この文体は、そのまま『S・カルマ氏の犯罪』に応用された。

かうして、安部公房は、『没我の地平』で確立したシャーマン安部公房の秘儀の式次第を温存して詩人のまま、小説家になることができた。この秘儀の式次第を遵守する限り、安部公房は詩人であり且つ小説家として生きて行くことができる。[註6]

[註6]
詩と小説の関係は、これで良いとして、エッセイは、安部公房にとつては、散文詩を書くことでした。安部公房がエッセイを書くことは、散文詩を書くことであり、また隠れた私小説であることでもあることを、換喩関係にあつていつも隣接して一緒にゐるだけで、交流することが本当にはなかつた花田清輝の思ひ出を次のやうに、自分自身に重ねて書いてをります。以下、「埴谷雄高『安部公房のこと』解題」(もぐら通信第51号)から引用して、お伝へします。

「安部 戦後、僕が小説を書き始めてから、一番共感をもてたのはやはり花田清輝だろう。い ろいろ意見のくい違いもあつたけど、芸術観というか、感受性でやはり抜群だつたと思うな。 
 とにかくすごく感受性の豊かな、人間嫌いだつた。政治的な発言にしても、運動としての 行動にしても、味方のコミュニケーションよりは常に敵との折衝を重んずる方でね。傷つき やすい人間だつたんだよ。見事なのはレトリックを変装の道具に使つて、どうやつて現世 の火輪をくぐり抜けるかの離れ業だな。だから彼のエッセイは、常にすごく抽象化された私小説だつたような気もする。 

 本質的には詩人だつたんだと思う。すべてのエッセイが散文詩として読めるし、散文詩としてエッセイを書いていた。


5。結末共有と結末継承
結末共有とは、安部公房の全ての作品が、互いに透明感覚を結末に共有してゐることを言ひます。

次に述べる結末継承と、結末共有の二つは、topologyの問題である。作品と作品の接続が、アナログとデジタル、連続と非連続の接続の実現をするといふことです。 [註8]

 [註8]
この作品と作品の接続が連続であり且つ非連続であることが、安部公房の文体と作品の構造を決定してゐることは、『『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く~』(もぐら通信第34号)の「贋魚の章(第8章)『《それから何度かぼくは居眠りをした》』と「第9章『《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投げ落とされた。つい五分前のことである。その手紙をここに貼付しておく》』の接続関係の問題として既に論じてありますので、これをご覧ください。贋魚の章は、一個の話中話として独立した作品になつてをりますので、そこで安部公房は此のやうな接続をすることになるわけです。


結果として、この二つの、言葉による統合の実現が、以上のやうな文体を生み出したといふ事になります。


6。結末継承から見る安部公房の作品の系譜
これは、投影体同士の結末継承関係といふことになる。これは当然topologyといふことから、連続の非連続、非連続の連続といふ継承関係である。以下に主要な作品の例を挙げて、この結末継承について理解をお願ひしたい。

(1)『砂の女』→『他人の顔』:凹(砂の穴の窪地)→凹(顔の穴の窪地)
(2)『他人の顔』→『燃えつきた地図』:部屋(ノートを書く部屋)→部屋(依頼人の部屋)
(3)『燃えつきた地図』→『箱男』:箱(電話ボックス)→箱(ダンボール箱)
(4)『箱男』→『密会』:救急車のサイレンの音→救急車のサイレンの音
(5)『密会』→『方舟さくら丸』:箱(地下の密室)→箱(黒い色の(従ひ陰画としての)市庁舎の箱型の建物)
(6)『方舟さくら丸』→『飛ぶ男』:朝(「夜があけていた」早朝)→朝(「ある夏の朝」)
(7)『飛ぶ男』→『カンガルー・ノート』:この二つの作品の結末継承は、差異を有する形態を備へた植物または植物園であつた筈。何故ならば、『カンガルー・ノート』が、カイワレ大根で始まるから。そして、全集第29巻、69ページのメモ書きの最後の一行が、「試験農園」とあるから。

このメモは『デンドロカカリヤ』を思はせますし、そして何よりも樹木や花は、リルケの純粋空間、即ち存在に生きる植物です。デンドロカカリヤは、その植物の一つなのです。それ故に、最後に存在の方向への立て札を体に留められて名付けられて「Dendrocacalia crefidifolia」といふ、間に一文字分の余白、即ち存在への通路である隙間が置かれて、コモン君は、この世を離れるのです。[註7]

[註7]
「Dendrocacalia crefidifolia」といふ立て札も含め、安部公房が小説の中で立てて、存在への方向を示す立て札については、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について(後篇)』(もぐら通信第33号)で詳細に論じましたので、これをお読みください。


(8)『カンガルー・ノート』→『さまざまな父』:郵便受けの窓(「郵便受けほどの、切り穴」:箱の穴)→郵便受けの窓(「玄関で郵便受けのバネが鳴った。」)この郵便箱と窓もまた、箱男の世界です。


7。結末共有から見る安部公房の作品の系譜
これは、投影体同士の結末共有関係を見るといふことになる。これは当然topologyといふことから、言語規則に拠る数理的な共有関係であつて、従ひ、安部公房の全作品を構造化して1となす、即ち存在となすものである。安部公房は、このために作品を書いた。

結論をいへば、上記5に定義したやうに、全ての作品は、透明感覚を結末に共有してゐる。

以下「『魔法のチョーク』論」(もぐら通信第52号)より引用して、お伝へします。

「安部公房の詩も小説も、その最後に(リルケに学んだ)透明感覚が出てきます。この透明感覚 が現れると、主人公は現実の世界での死または失踪を迎えることになります。例を挙げれば、 『砂の女』の最後の濾過装置の水の透明感覚、『他人の顔』の最後の電話ボックス(のガラ ス)、即ち透明な箱、『燃えつきた地図』の最後の電話ボックス(のガラス)である透明な箱、 『箱男』の最後の「じゅうぶんに確保」されてゐる余白と沈黙の「......」のある「落書きのた めの」透明な箱、『密会』の最後の(『砂の女』の最後と同じ)「コンクリートの壁から滲み 出した水滴」(と「明日の新聞」)、『方舟さくら丸』の最後の手が透けて見え、景色も透け て見える透明感覚、『カンガルー・ノート』の最後の透明感覚を巡る会話(「君には見えてい るの?」/「見えていないと思う?」)[註1] 

[註1]
安部公房の透明感覚については、『もぐら感覚7:透明感覚』(もぐら通信第5号)にて詳細に論じてをりますので、これをお読みください。


安部公房の作品は、全て結末共有である。即ち、すべての作品が、結末に於いて同じ構造を備へてゐる。


8。冒頭共有から見る安部公房の作品の系譜
結末共有があれば、冒頭共有がある。後者は常に、時間と空間の差異を設けることで、安部公房の作品は始まるのでした。これは、諸処諸論で論じた通りです。

冒頭共有とは、安部公房の全ての作品が、時間と空間の差異と其の交差点を冒頭に共有してゐることを言ひます。交差点に存在が現はれるのです。[註8]

[註8]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第33号)より以下に引用して、安部公房の十字路、交差点について説明をします。

「5。安部公房の十字路 
奉天の窓は、窓と窓の間に在る間(はざま、ま、余白)によって生まれる積算値だと言いました。この奉天の窓のマトリクスを、もっと抽象化すれば、次のようになることが自然と理解さ れるでしょう。[註13] 

(奉天の窓(変形7)の図 は省略)

[註13] 
『密会』刊行後のインタビューで、安部公房は、次のように言っています。

「......あれだって譬喩や寓意としてだけ読まれたのでは困る、あくまでも事実として受けとめてほしいな。たしか にユークリッド空間では、平行線は交わらないのが事実だろう。でも非ユークリッド空間では、むしろ交差するほう が事実になる。人間が昆虫になることは事実上ありえないが、カフカの『変身』のなかでは事実になるでしょう。」 (『「明日の新聞」を読む』全集第28巻、296ページ下段) 

この箇所以外にも、安部公房は繰り返し、この数学的な譬喩を使って、この十字路、交差点という奉天の窓に見つけた自分の世界を説明しています。リルケは世界だが、ポーは文学だと或る所で言っております。リルケは、仮説設定の文学ではなく、あくまでも一つの世界なのです。奉天の窓を語ることは、ひとつの世界を語ることであり、安部公房の筆法を借りれば、それは文学以前の、言語以前の、詩以前の、戯曲以前のことなのです。

(略)

6。安部公房スタジオの十字路
「そして、もし、文学が文学の枠を破って、時間そのものに目を向け、音楽の枠を破って、空間そのものに目を向け、しかも自己を喪わずにすませられる場所があるとしたら......つまりそれが、いまぼくが考えている舞台なのである。ぼくにとっての、新しい舞台芸術とは、時間と空間のどちらかが、どちらかに従属することでもないし、またむろん両者の折衷でもありえない。両者が自立しながら交差する場所としての舞台なのだ。そして俳優は、その交差点にあって、時間と空間の両軸を、自由に往来できる使者でなければならない。ちょうど光が、波動であると同時に、粒子でもあるように。」(全集第24巻、512ページ)傍線筆者。

(奉天の窓(変形8) は省略)

安部公房は、この奉天の窓である交差点を総合藝術の舞台とし、その舞台に立つ俳優たちにニュー トラルという概念、即ちこの奉天の窓たる交差点に立つことを、即ち存在(積算値)となること を教えたのです。みかんやりんごではなく、みかんとりんごの間を自由に往来できる関係概念と しての、機能(媒介者)という上位の役割を演ずる透明な果物になれ、自己をして存在に変形せ しめよと指導したのです。勿論、安部公房の存在は、安部公房の発見者埴谷雄高の考えた存在と は全く正反対に、絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものであり、以上の考察でお分か りの通り、関係概念であり、関数であり、媒介者なのです。即ち、存在は幾つもあるのです。奉 天の窓が幾つもあるように。[註14] 

[註14]
安部公房は、安部公房スタジオ設立と同時に書いた『箱男』について次のように語っています(『〈書斎をたずねて〉』全集第24巻、144~145ページ)。

「農村構 というのは、そのもとへと人間の帰属を強制するわけだが、人間の歴史はその帰属をやわらげる方向に進んできた。しかし、最終の帰属としての国家が残った。ここだけは破れないんだな。法律もモラルもすべて帰属したワクの中だけにある。しかしいま、その最終的な国家への帰属自身が問われ始めているわけだ。帰属というものを本当に問いつめていったら、人間は自分に帰属する以外に場所がなくなるだろう。ぼくにとってそれが書くということのモチーフだけれど、特に今度の書き下ろし『箱男』では、それを極限まで追いつめてみたらどうなるかということを試みてみたわけだ。」

安部公房は、やはりこの作品で、再帰的な自己に回帰したことが判ります。即ち合わせ鏡という交点の世界に立つ自 己の姿を語っているのです。合わせ鏡の交差点(鏡1(鏡1.1(鏡1.1.1......)))という、既に奉天の窓で考察し て来た時間の無い積算値の世界、存在の世界、人間の未分化の実存で生きている隙間の領域、再帰的な人間、即ち箱 男の世界です。 

安部公房は、この交差点の無限の入籠構 を使って、小説の構 の水平方向と垂直方向を入れ替えて、いわば『燃えつきた地図』のエピグラフにあるように、その列と行を無番地にして読者を招じ入れ、この交換関係の交差点に読者を立たせることによって、『箱男』において、読者の意識に存在の革命を惹き起こそうと企図したのです。

1970年を境に、[註11]に列挙した5つの理由によって、安部公房はリルケに回帰することを決心したというわたしの仮説は正しいのだと思われます。」



従ひ、その意義もまた、上記7の結末共有で述べたことと同じく、全作品の構造化であり、すべての作品群を1となし、従ひ、結末共有と一緒になつて、始めと終わりをtopologicalに接続することによつて、全作品を存在となす[註9]ことになるのです。

[註9]
この、安部公房の存在概念については、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第32号及び第33号)及び『存在とは何か~安部公房をよりよく理解するために~』(もぐら通信第41号以降連載)をご覧ください


9。結論:安部公房の文学とは一体何か
以上1から8までを通して考へて来ますと、安部公房の全作品を一言で要約せよと云はれれば、次のやうになります。

安部公房の全作品は、存在である。

いや、更に言ひ換へませう。

安部公房の全作品が、存在である。

そして、この存在たる作品群は、何故さうなつてゐるかと云へば、このデジタルの、空間的な、時間を捨象した作品の構造化は、全作品同士の冒頭共有(差異を設けること)と結末共有(透明感覚の提示)によつて其れが可能となつてゐるからであり、また時間の中での個別作品同士の連続的なアナログの創造関係は、個別に同じ又は類似の形象と語彙の結末継承によつて連続性を保持してゐるからである。

と、このやうに纏めることができます。

偉大なるかな、安部公房。一生涯に亘り、初志貫徹せり。

安部公房は、個々の作品の冒頭共有と結末共有をして、全ての作品を一個の作品となした。そ して、結末継承は、各作品を全て接続するための糸である。そして、どの作品にも、全ての作 品が宿つてゐる。これは、従ひ、安部公房といふ合わせ鏡の世界に生きた再帰的人間 (recursive man)の自画像である。即ち、全体は部分からなり、各部分に全体が宿つてゐる。 即ち、安部公房の世界は、体系なのであり、英語でいふthe systemなのです。全く、言葉の科 学者であり、言葉のエンジニアと呼ぶに相応しい。 


 「全体は部分からなり、各部分に全体が宿つてゐる。」
(『安部公房の変形能力17:まとめ:安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像』もぐら通信第17号より)


かうして、私たち読者の目の間に現はれてゐるのは、巨大な、言語による曼荼羅なのであり、確かに此の曼荼羅は、垂直方向の差異からなるデジタルの無時間の縦糸、水平方向の連続・非連続からなる(時間の中に並ぶ)横糸を交差させて製作された言語宇宙たる織物(texture)なのです。

私たちは、この曼荼羅の前に立つて、この存在の宇宙を宇宙の存在を褒め称へ、荘厳しようではありませんか。リルケがさうしてたやうに、安部公房がさうしたやうに。

そのための呪文は、安部公房によつて諸作品の中に、既に十二分に読者には与へられてゐます。例へば、

ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
 何の音?
 鈴の音

 ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
 何の音?
 鬼の声」

(『砂の女』全集第16巻、156ページ)


この曼荼羅は宇宙の「壁」に掛けられてゐる。このバロック的な、差異だけからなる壁を有する大伽藍の寺院は、夜の中に立つてゐて、詩人リルケに学んだ末に遂に至つた、安部公房の、散文としての、時間の存在しない、純粋空間なのです。

その究極の成果が、惜しむらくは遂に未完のままの『飛ぶ男』であり、『さまざまな父』なのです。しかし、未完であるが故に、安部公房が一体どうやつて小説を具体的な文字を使つて構造化したのかを、その手がかりを、これら未完の小説は、その未完性の故に、読者に与へてくれてをります。実に生々しい手稿です。それもワープロのフロッピー・ディスクの中にあったデジタルの手稿(manuscript)。如何にも安部公房らしい。二つの小説については、稿を改めて論じます。

夜の中に立つ此の寺院の大伽藍の庭には、植物園があり、デンドロカカリヤが一本、存在の中に立つてゐる。

以下、後篇では、『デンドロカカリヤA』と『デンドロカカリヤB』を比較して論じます。安部公房の苦心が奈辺にあつたのか。即ち、如何にしてリルケの叙情を取り去ったのか。その蒸溜法とは。

(続く)

追記:

上記論考中(略)とした箇所を明示した完全版は、もぐら通信第53号に掲載してをります。次のURLでダウンロードすることができます。



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