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2017年5月18日木曜日

安部公房短編小説『パニック』の舞台化再演!

THEATRE MOMENTS1年半ぶりの日本での公演!第4回せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリ受賞した安部公房短編小説『パニック』の舞台化再演!5月1日チケット販売開始。公演詳細は:






2017年5月16日火曜日

もぐら通信第59号(第四版)

安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4)』の下記の箇所の文言を改訂しました。




1。P28:第三段落
「廊下」を「らうか」に。

2。P38:第2段落
「2500年前も前の」を「2500年も前の」に。

3。P43:項番6:4行目


「「」を削除する。



https://ja.scribd.com/document/349149525/第59号-第四版


*****

「もう秋か。――それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、――季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。」(『別れ』アルチュウル・ランボオ(小林秀雄訳))

もぐら通信第59号(7月号)をお届けします。

    
               目次
0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 何故安部公房は『スプーン曲げの少年』を書かうとしたのか?…page 12
3 安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4):最終回
  VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界での問題下降」後の小説)…page 24
4 私の本棚:岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』を読む…page 46 
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(4)~安部公房をより深く理解するために~…page 59
6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 65
7 編集後記…page 67
8 次号予告…page 67

・本誌の主な献呈送付先…page68
・本誌の収蔵機関…page68
・編集方針…page 68
・前号の訂正箇所…page68


純粋空間であるあなたの巣穴で安部公房とのひと時をお過ごし下さい。

岩田英哉



もぐら通信

2017年5月15日月曜日

もぐら通信第59号(7月号)をお届けします



「もう秋か。――それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、――季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。」(『別れ』アルチュウル・ランボオ(小林秀雄訳))

もぐら通信第59号(7月号)をお届けします。

    
               目次
0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 何故安部公房は『スプーン曲げの少年』を書かうとしたのか?…page 12
3 安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4):最終回
  VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界で 
   の問題下降」後の小説)…page 24
4 私の本棚:岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』を読む…page 46 
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(4)~安部公房をより深く理解するために~…page 59
6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 65
7 編集後記…page 67
8 次号予告…page 67

・本誌の主な献呈送付先…page68
・本誌の収蔵機関…page68
・編集方針…page 68
・前号の訂正箇所…page68


純粋空間であるあなたの巣穴で安部公房とのひと時をお過ごし下さい。

岩田英哉

もぐら通信

2017年4月28日金曜日

もぐら通信第58号(第四版)(6月号)をお届けします

もぐら通信第58号(第四版)(6月号)をお届けします。


0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?:岩田英哉…page 6
   I 小説の中で何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?
    1。第一の猫殺人事件:処女作『(霊媒の話より)題未定』の猫
    2。第二の猫殺人事件:『他人の顔』(講談社版)の猫
    3。第三の猫殺人事件:『燃えつきた地図』の猫
    4。第四の猫殺人事件:『方舟さくら丸』の猫
   II 1957年(昭和32年)32歳の時に東欧旅行中の安部公房が真知夫人に
     当てた葉書の文面から解ること
   III 『キンドル氏とねこ』:第五の猫殺人事件
   IV 安部公房の小説観と世界認識  
   V 何故安部公房の主人公は複数存在するのか?
   VI 安部公房はリルケの天使を殺したのか?
3 安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(3)…page 32
   IV 「転身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期
      の小説)
   V 「転身」といふ語のある詩を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の
     詩)
   VI 『デンドロカカリヤA』(「②及び③の問題下降期の中間期の小説)
4 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(3)~安部公房をより深く理
  解するために~:岩田英哉…page 55
5 私の本棚:SF映画『インターステラ』を読む:岩田英哉…page 58
6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 60
7 編集後記…page 62
8 次号予告…page 62

純粋空間であるあなたの巣穴で今月も、安部公房とのひと時をお過ごし下さい。


岩田英哉
もぐら通信

2017年4月26日水曜日

日本映画専門チャンネルの「訪問インタヴュー」で、安部公房が

日本映画専門チャンネルの「訪問インタヴュー」で、安部公房が






「1985年・TV・カラー    
出演:安部公房  
作家・安部公房は昭和59年11月、7年ぶりに書き下ろし作品を発表した。「方舟さくら丸」という小説で、核時代における人間、人類の生存のあり方を豊かなイメージと寓意(ぐうい)性の中で考えたもの。核兵器と国家を考える「核時代の方舟幻想」、旧満州時代を語る「わが青春原風景」、作品について語る「前衛であり続けること」などの内容で話をきく。」


そのほかの、インタヴュイーは、次の方々です。




2017年4月16日日曜日

もぐら通信第57号(第三版)をお届けします

もぐら通信第57号(第三版)をお届けします。


訂正箇所:
第57号
安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(2)

P32
訂正前:
「僕の中の「僕」」と言葉存在の関係

訂正後:

「僕の中の「僕」」と言葉存在の関係

2017年4月15日土曜日

もぐら通信第57号(5月号)をお届けします

もぐら通信第57号(5月号)をお届けします。


0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 『さまざまな父』の朝食は何故ドーナツと鶏の燻製とブラックコーヒーなのか?:編集部…page 6
3 安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(2):岩田英哉…page 9
4 処女作『(霊媒の話より)題未定』と最後の小説『カンガルー・ノート』の結末継承と作品継承について:岩田英哉…page 45
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(2)~安部公房をより深く理解するために~:岩田英哉…page 54
6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 59
7 編集後記…page 61
8 次号予告…page 61


純粋空間であるあなたの巣穴で安部公房とのひと時をお過ごし下さい。

岩田英哉
もぐら通信


2017年4月4日火曜日

もぐら通信第56号(第五版)をお届けします


もぐら通信第56号(第5版)をお届けします。この改版が最後です。下記の一箇所を訂正しました。


      記


もぐら通信第56号(第五版)の訂正

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(1)~安部公房をより深く理解するために~』:
P39:
訂正前:
「二つの『デンドロカカリヤ』に実際の詩集の名前として2度出て来る以上」

訂正後:


「二つの『デンドロカカリヤ』に実際に2度の同じ詩行の引用がある以上」

2017年4月3日月曜日

第56号(第二版)をお届けします


安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の第1章「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について」下記の訂正を加へましたので、お知らせし、ここに第56号(第二版)をお届けします。そのほかの修正はありません。


          記

P35:最後の段落
訂正前
「人間如何に転身するかの記録」
訂正後
「人間如何に転身するかの記録」

P36;下から二つ目の段落
訂正前
「人間如何に転身するかの記録」
訂正後
「人間如何に転身するかの記録」

P37:上から3段落目
引用に関する全集のページを明示した:
訂正前
「(此処に空白がある。(略)/ある日…………。)」
訂正後
「(此処に空白がある。(略)/ある日…………。)」(全集第1巻、558ページ下段)

P39:下から3段落目
訂正前
『ドゥイーノの悲歌』は、(略)実際の詩集の名前として出て来る以上(略)
訂正後
『ドゥイーノの悲歌』は、(略)実際の詩集の名前として2度出て来る以上(略)

P40:第1段落と第2段落の間
読者の理解の促進のために、次の文言を挿入した:

『詩と詩人(意識と無意識)』や『名もなき夜のために』や『中埜肇宛書簡第2信』と同様に、『オルフォイスへのソネット』でも第一部と第二部の間に余白と沈黙があり、ここで存在と化したオルフォイスは第二部で蘇生し、透明な何者かになつて転身を止むことなく続ける。十代の安部公房のリルケ理解の誠に深いこと。しかし、順序は逆であり、リルケがあつて安部公房がある。

P43:「リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(1)の副題
訂正前
~安部公房のをより深く理解するために~
訂正後

~安部公房より深く理解するために~

2017年4月2日日曜日

もぐら通信第56号(4月号)をお届けします

もぐら通信第56号(4月号)をお届けします。


0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 「奉天の窓」の前で新聞を読むリルケ…page 17
3 「ソドムの死」:柴田望…page 18
4 安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(1):岩田英哉…page 23
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(1)~安部公房をより深く理解するために~:岩田英哉…page 43
6 N氏との往復書簡2:二十一世紀の三島由紀夫・安部公房論…page 52
7 連載物次回以降予定一覧…page 57
8 編集後記…page 59
9 次号予告…page 59


今月もまた、あなたの巣穴で安部公房とのひと時をお過ごし下さい。

もぐら通信
発行人

岩田英哉

2017年3月25日土曜日

実力派俳優陣が火花!安部公房が描いた戦後に向き合う「城塞」

実力派俳優陣が火花!安部公房が描いた戦後に向き合う「城塞」



この戯曲の舞台稽古の様子を伝へた記事です。

「3人の30代の演出家が昭和30年代に書かれた戯曲に取り組む「かさなる視点―日本戯曲の力―」の第2弾として、上村聡史が安部公房の「城塞」に挑む。開幕まで1か月を切った3月中旬、稽古場に足を運んだ。 

軍需産業で成り上がった“男”(山西惇)には、“拒絶症”を患う父(辻萬長)がいる。拒絶症とは、ある時から自分の中の時間を止めてしまう病。発作時だけかつてのように正気を取り戻す父に、男は妻(椿真由美)や従僕(たかお鷹)を巻き込み、終戦直後のある一日を再現してみせる。幾度も繰り返されるそんな芝居にうんざりした妻は、父を精神病院に送る計画を立てる。男は妻に代わりストリッパーの女(松岡依都美)を雇い、最後の芝居を打つが……。 」


以下のURLへ:




2017年3月22日水曜日

二十一世紀の三島由紀夫・安部公房論

二十一世紀の三島由紀夫・安部公房論

以下は、西村幸祐氏の「三島由紀夫と21世紀の日本」といふ題の講演を聴講し、安部公房との関係で幾つも思ふところがありましたので、それをまとめたものです。誠に気のあふ二人でありましたので、この講演の重要な論点を、以下書簡体の体裁をとり、二十一世紀の三島由紀夫論は、そのまま二十一世紀の安部公房論であることを、安部公房の読者にお伝へします。そして、三島由紀夫の読者にもお読みいただければ、誠にありがたい。

同氏の講演中の言葉を拝借して言へば、時代がやつと安部公房に追ひついたといふことになります。


西村さま、

昨日は、いい講演会でした。以下、私の感想です。いくつもありますが、貴君の演題に基づいて、次の3つに話を絞ります。

1。昭和時代のメディアとしての三島由紀夫
2。シャーマン(霊媒)三島由紀夫
3。21世紀の三島由紀夫論


1。昭和時代のメディアとしての三島由紀夫
昭和時代のメディアとしての三島由紀夫ということを言はれて直ぐにおもひ出したことは、自ら古典主義の時代と『私の遍歴時代』で名付けた時期に愛読したトーマス・マンの20歳前後の手紙と後年のエッセイの中の言葉です。

前者に、マンは小説家として身を立てる以上、自分は時代のdas symbolische Sein(象徴的な存在)になりたいと書いてをります。これを後年、後者にては、私の文学的な使命、藝術家としての使命は、十九世紀といふ時代の幕を引くこと、幕を閉じること、これが私の使命であると書いてゐます。マンの意識した時代は十九世紀でした。さて、即ち、

貴君の提示した此の「昭和時代のメディアとしての三島由紀夫」といふ新しい視点を、この三島由紀夫の愛読したマンの文学的使命と併せて考へますと、昭和時代のメディアとしての三島由紀夫とは、あるいは昭和といふ時代を観るためのメディアとしての三島由紀夫とは、マン流にいへば時代の象徴としての三島由紀夫、das symbolische Seinといふことになりませう。

三島由紀夫の意味するSeinとは、『太陽と鉄」』に文字にして書いてゐる通り、言葉の腐食作用を排したあの純粋な肉体そのもののことでありますから、あの市ヶ谷の癩王のテラスでの切腹は、全く昭和時代を象徴する存在に三島由紀夫が成つたことを意味してをります。昭和時代の幕をみづから引いたといふことになります。

他方、貴君はジャーナリストでもありますから、この職業的な視点から見れば、貴君のいふ通りに、三島由紀夫は象徴的なSeinである以上、同時に常に「今ここにかうやつて」Daseinしてをります。何故ならば、そして、ドイツ語の語構成からいつても、SeinがなければDa-Seinもないからです。

さて、以上がマンからみた、昭和時代と三島由紀夫の存在と現存在の話です。しかし、私が伝へたいのは更に先にあります。

2。シャーマン三島由紀夫
しかし、その前に、昭和といふ時代を観るためのメディアとしての三島由紀夫に話を戻しますと、この三島由紀夫についての象徴的存在論及び現存在論は、そのまま、貴君が言及してゐた「英霊の声」の川崎君が霊媒であるやうに、霊媒三島由紀夫論になるのです。

これについては、詳細に三島由紀夫の十代の詩を読み解き、また小説に同じ此の古代感覚(三島由紀夫の短文のエッセイ「夢野之鹿」を憶ひ出して下さい、この古代感覚)が20歳以降もあり、これが三島由紀夫の小説の様式に如何に深く関係してゐるかといふことを論じてありますので、次のURLをご覧くださるとありがたい。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪文と秘儀』


即ち、貴君の昭和時代のメディアとしての三島由紀夫論は、霊媒としての、シャーマンとしての三島由紀夫論に直結してゐるといふ事がいひたいのです。これは、実は安部公房の側から見ても、同じなのです。二人が何故あんなに気が合ひ仲がよかつたか。私の21世紀の安部公房論の主要な柱の一つは、安部公房シャーマン論あるいはシャーマン安部公房論なのです。即ち、欧米白人種キリスト教徒の一神教に淵源する、そして此の一神教から逃れまた否定をして近代ヨーロッパ文明の生み出した民主主義と資本主義と共産主義(マルクス主義)ではない(これらは皆いふまでもなくglobalismです)、宗教の世界でいふならば、多神教の世界であり、哲学の領域でいふならば、汎神論的存在論です。

さて、このことについての筆は、惜しいけれども、ここで一度留めることにして、上で述べた更に先の話をします。これが、私の伝へたいことです。

3。二十一世紀の三島由紀夫論
上のやうに1、2と考へてきますと、貴君に私が期待する二十一世紀の三島由紀夫論は、次のやうなものになります。

2017年1月20日にヨーロッパ資本主義の鬼子であるアメリカ合衆国の大統領にトランプといふ人間が就任した以降の此の時代に於いて、

(1)シャーマン三島由紀夫を論ずること。即ち、大東亜戦争を戦つた日本民族、日本人の生きた戦前戦後の終始一貫した昭和時代の象徴的な存在としてある三島由紀夫を、ヨーロッパ文明の衰退または崩壊の中で論ずること。(私はシャーマン安部公房論でこれ既に論じて参りましたし、これからも論ずるつもりです。)そして、
(2)白人種キリスト教徒の植民地主義の上での三島由紀夫論ではなく、それを超えて、多神教の世界の、即ち普遍的な八百万の神々の世界の問題として、象徴的存在であり今も生きてゐる現存在としての三島由紀夫を論ずること。(この象徴的存在と現存在の関係は、三島由紀夫が安部公房と共有してゐる幾つもある接点の重要なものの一つです。その関係はいづれもreversalになつてゐますが。これについては、岡山典弘氏の著作に触発されて書いた次の文章をご覧ください。「三島由紀夫が安部公房と共有した19の主題、又は『安部公房外伝』」https://abekobosplace.blogspot.jp/2014/11/blog-post_80.html

上の(1)及び(2)の三島由紀夫の文字を安部公房といふ文字に入れ替へれば、そのまま二十一世紀の安部公房論の論旨になります。

また、白人種キリスト教徒のアジアやアフリカ大陸に於ける此の収奪と大虐殺の500年である植民地主義に基づかない新しい世紀の文学について、安部公房がどのやうに何を考へてゐたのかの言葉を引いて(先月号のもぐら通信第55号、13ページ)、次のやうに伝へたい。:

「「この前もテレビで大航海時代なんでロマンチックな特集番組をやっていたけど、要するにあれは略奪農耕なみの乱暴な植民地収奪じゃないか。血も凍るほどの第一期の植民地時代、皆殺し政策だからね、やるほうはテレビゲームはだしの面白さだろうけど、やられる側はロマンチックどころの話じゃないよ。」(『錨なき方舟の時代』全集第27巻、159ページ上段)

「けっきょく世界は植民地支配国と、被支配国の二つに分けられる。(略)ところがなぜか日本は植民地化されなかった。地政学的には当然侵略の対象になってしかるべきアジアの一角にありながら、なぜか支配をまぬかれた。偶然か必然かはさておいて、おそらくアジアでは唯一の植民地化されなかった国だろう。だからもし日本の特殊性を言うなら、文化だとか風土だとか伝統なんかではなく、きわどいところで植民地化をまぬかれたという点……[註A]
―――要するに偶然の結果だということですか。
安部 必然が意識された偶然だとすれば、やはり偶然と言ってもいいでしょう。要するにどこの国でも、植民地化の運命さえまぬかれていたら、日本と同じようなコースをたどれたかもしれないということが言いたかった。この問題に対する日本人の鈍感さはまさに西洋人なみだ。だから日本のテレビがポルトガルの大航海時代を祝う式典を中継して、ひどくロマンチックな解説をつけて、西と東の文化の交流の記念だとかなんとか一緒になって手をたたいてみせたりする。文化の交流どころか、一つ間違ったら植民地化の先兵になりかねない連中だったんだ。裸の子供のところにライオンが入ってくるようなものさ。
 そして運よく食用にならずにすんだ日本という子供は、遅ればせながらローロッパ式の近代化をとげ、遅ればせながら植民地支配の仲間入りをしてしまう。ところが先輩たちにさんざんうまい汁を吸われてしまった後だったから、戦火による略奪というひどく不器用な手段にたよるしかなかった。
 いわゆる発展途上国に見るべき文学がないのも、けっきょくは植民地収奪の結果だと思う。発展途上国にも文学があり、その民族のためのすぐれた文学が生まれていると主張する人もいるけど、ぼくはそう思わない。すくなくとも世界文学、あるいは現代文学という基準では、文学と言うにたる文学はない。
 逆説的に言えば、だから現代文学は駄目なんだとも言える。西欧的な方法をよりどころにしているから駄目なのではなく、植民地主義の土台にきずかれたものだから駄目なんだ。反植民地主義的な思想にもとづく作品でさえ、植民地経済を基礎にしていた国からしか生まれ得ない。メフィストフェレスなしにファウストがありえないようなものさ。(『錨なき方舟の時代』全集第27巻、159ページ下段~160ページ上段)(傍線筆者)

[註A]
アジアの中で、欧米白人種(キリスト教徒)諸国の植民地化による収奪を免れて、国家としての独立を維持したのは、我が日本国の他には、タイ王国だけです。アフリカ大陸についてはいふまでもありません。」


このやうな二十一世紀の三島由紀夫論の中で詳細に論じられるべきは、貴君が文章を読み上げて其の素晴らしさ美しさを褒めて紹介してくれた、鏡子の家でありませう。日本人は此の小説を理解する事が当時はできなかつた。今ならば、できるかも知れない。

鏡子の家の最初の一行と最後の一行は、正確に照応してゐる。何によつて?繰り返しの呪文によつて。最初は人間の欠伸といふ繰り返しの呪文、最後は7匹の犬の咆哮といふ繰り返しの呪文によつて。後者の犬を、安部公房ならば、人間のうちに秘められた生命そのものである、人間による統御は不可能であるが故に現実を食い破る「獣」と呼んだことでありませう。特に顕著に、十代から二十代にかけての詩と小説に、この荒ぶる神のやうな獣たちが歌はれ、書かれてゐます。

貴君の講演中の言葉を其のまま引用して言へば、時代がやつと三島由紀夫に追ひついたのです。

さうすると、この事は何を意味してゐるかといへば、実は二十世紀の日本の読者達は、鏡子の家』が理解できなかつたのであれば、これ以外の三島由紀夫の小説も、実は、本当には理解できてゐなかつたといふことを意味してゐるのではないでせうか。『金閣寺』の後に発表した此の作品の評価が最低であり、前者は最高であるといふ事が、当時の作品評価の此の大きな落差が、実は、そのことを意味してゐるのではありませんか?前者は俗耳俗心に入り易く、後者を読む事は当時の日本人には苦痛であつた。

まだまだ、他にも何故日本人の文章の読解能力が劣化したかについて、何故SNSの時代に益々日本人は公私の識別が出来なくなつたのかについても、また其の他色々の事についても思ふところあり。また次の機会にお話したい。

活躍を祈ります。

岩田


2017年3月17日金曜日

新国立劇場の舞台・安部公房作「城塞」が4月13日から上演される。

新国立劇場の舞台・安部公房作「城塞」が4月13日から上演される。


 
新国立劇場では「かさなる視点―日本戯曲の力―」として昭和30年代の日本の名作戯曲を30代の気鋭の演出家たちに託す3ヶ月連続のシリーズを上演してゐる。
 
「かさなる視点―日本戯曲の力―」
第一弾
「白蟻の巣」
作:三島由紀夫
演出:谷賢一
第二弾
「城塞」
作:安部公房
演出:上村聡史
第三弾
「マリアの首」
作:田中千禾夫
演出:小川絵梨子

既に三島由紀夫の「白蟻の巣」は終り、第二弾は安部公房の「城塞」。

上記のウエッブページによれば:

「戦時下のとある家庭で繰り返される、父子による奇妙な”ごっこ”を描き、戦争によって富を築いたブルジョア階級の責任を問う痛烈な視点が際立つ傑作を、文学座の気鋭の演出家・上村聡史が演出する。

この舞台「城塞」の稽古初日に行われた顔合わせの模様が動画で公開された。【動画1分】」

とのこと。


「公演情報
 舞台「城塞」
 作:安部公房
 演出:上村聡史
 出演:山西 惇 椿 真由美 松岡依都美 たかお鷹 辻 萬長(※「辻」は一点しん
 にょう)
上演期間:2017年4月13日(木)~30日(日)
チケット購入:

この戯曲は、安部公房全集第16巻、313ページにあります。1962年9月1日付の発表。同巻396ページに、「労演の委嘱に応えてー「城塞」」と題した、作者安部公房の言葉があります。安部公房らしいいつもの論理展開で、この戯曲について語つてゐます。


2017年3月9日木曜日

「奉天の窓」の前で新聞を読むリルケ


「奉天の窓」の前で新聞を読むリルケ

たまたま、リルケの或る作品を探してゐて、この写真を見つけましたので、掲げます。



2017年3月5日日曜日

『箱男』脱稿直後の安部公房の講演のポスター

『箱男』脱稿直後の安部公房の講演のポスター

『箱男』脱稿直後の安部公房の講演のポスターを、偶々(たまたま)別の目的で検索してゐて見つけました。

この講演の安部公房の声は、次のYouTubeで聴くことができます。





2017年3月2日木曜日

もぐら通信第55号(第三版)をお届けします。

もぐら通信第55号(第三版)をお届けします。

『安部公房文学の毒について~安部公房の読者のための解毒剤』につき、誤字を直し、または文意がより明らかになるやうに幾つかの小さな改訂を致しました。

ダウンロードのためのURL:

訂正箇所は次の通りです。

P18
[改訂前]
作品構造論の視点から眺めると、冒頭共有・結末共 有と結末継承によつて接続されてをりますので、 そしてこのやうに語のレヴェルと文のレヴェルから一個の作品のレヴェルまで、安部公房の作品は、
[改訂後]
作品構造論の視点から眺めると、安部公房のすべての作品は冒頭共有・結末共 有と結末継承によつて接続されてをりますので、 そしてこのやうに語のレヴェルと文のレヴェルから、従ひ一個の作品のレヴェルまで直喩によつてをりますので、安部公房の作品群は、

P20
[改訂前]
実戦とか行動とかいうこと 
[改訂後]
実践とか行動とかいうこと 

P20
[改訂前]
19歳の時に寄稿した
[改訂後]
18歳の時に寄稿した

P24
[改訂前]
文字の部は、その均 斉を、この空白の部があつて初めて成り立つてゐるのです。 
[改訂後]
文字の部は、その均 斉を、この空白の部があつて初めて成り立つてゐるのですし、成り立たしめてゐるのです。

P31
[改訂前]
上の二つの」詩に見える
[改訂後]
上の二つの詩に見える

P33
[改訂前]
第二連では「じつと炎える様なさぐる様な僕の眼を」を話者はする事になり 
[改訂後]
第二連では「じつと炎える様なさぐる様な僕の眼を」話者はする事になり 

P35
[改訂前]
3。空間感覚と いふ毒(存在論の毒)」 
[改訂後]
「3。空間感覚と いふ毒(存在論の毒)」 

P37
[改訂前]
人間は円盤の上にゐて生活してゐるであり 
[改訂後]
人間は円盤の上にゐて生活してゐるのであり 

P44
[改訂前]
これによてば、
 [改訂後]
これによれば、 

P44
[改訂前]
簡潔な主張をしてゐます。
[改訂後]
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即ち言語として、全ての作品の中に。
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即ち言語として、否、言語構造として、全ての作品の中に。言語構造、即ち存在として。

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もぐら通信





2017年2月13日月曜日

『デンドロカカリヤ』論 (後篇)

『デンドロカカリヤ』論
(後篇)


目次

1。リルケの『涙の壺』
2。蒸留法
2。1 話法の問題(一般)
2。2 安部公房独自の話法(個別)
3。 まとめ

*******

1。リルケの『涙の壺』

後篇の主題は、前篇の結末に書きましたやうに、如何にして安部公房は『デンドロカカリヤA』にある叙情を、『世紀の歌』に云ふ「蒸留法」で乾いた文体を備へた『デンドロカカリヤB』となしたのかといふ問ひに答へることです。

そのためにまづ『世紀の歌』といふ詩を吟味してみませう。

「ぼくらの日々を乾かして
 涙の壺を蒸溜しよう
 ミイラにならう
 火を消すものがやつてきたら
 ぼくら自身が火となるために!」

この詩にある「涙の壺」がリルケの『涙の壺』であることは前篇でお話しした通りです。涙の壺には、社会に対するに詩人である自分自身が涙するにつれて益々貧しくなりゆき、

「より小さな尺度として、そして最も痩せたものとして、 

わたし自身を穿って、中空にし、窪ませて、他の欲求を満たすものとなす」

とあるやうな状態になり、他方、社会は、詩人が「最も痩せたもの」になるにつれて益々豊かになり、文明の壺の中にある酒について言へば、

「葡萄酒はより豊かになり、そして油は壷の中でより清澄になる」

とあるやうに、世の中の壺といふ壺には葡萄酒と油が蓄へられ文明が栄えるといふ、そのやうな文明や社会との関係にある詩人の姿を歌つた詩でありました。

この、安部公房の愛唱した詩は、空の壺と其の形といふことから、既に早や『赤い繭』の変身と変形の論理を思はせるものがあります。これを数学的に表せば、位相幾何学(topology)の世界だといふ事になります。文学と数学は、このやうに、安部公房にあつては、いつも一つになつてをります。

これに対して、『世紀の歌』といふ詩は、1949年3月15日に書かれた詩です。そして、この詩の後、同じ年の8月に、前年度に書かれた処女作『終りし道の標べに』を問題下降して「詩と散文統合の為の問題下降」に成功した作品として『デンドロカカリヤA』がある訳です。これは詩人から小説家になる移行期の作品です。

従ひ、この作品には詩の要素と散文の要素が混在してをります。中間項は、『名もなき夜のために』です。読者ご存知の通り、この小説の言葉は美しく繊細であつて叙情的な声調によつて成り立つてゐます。この叙情性をどうやつて「蒸留」するのか、その蒸留法とは何かといふことを考察する事にしませう。


2。蒸留法

安部公房が詩人として世界を歌ふときには一つの特徴があります。それは、世界と其の中にある諸物諸事諸人に対して、呼びかけるといふ事、そして次に自問自答するといふ事です。安部公房全集の中では、第1巻所収の『〈今僕はこうやつて〉』といふ19歳の時のエッセイに其の最初の例を、私たちは見ることができます。(全集第1巻、88~89ページ)

「例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出して其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡る事だろう。僕の心に繋ろうとする努力がありありと見えて来る。さあ、此処で僕達が若し最善を発揮しようとしたならば一体何うすべきなのだろうか。こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜く可きであろうか。いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への固定に過ぎないのではあるまいか。」 [註1]

[註1]
このエッセイの全体と上の引用の箇所の分析と解読は、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)の[註15]に詳述しましたので、これをご覧ください。



『デンドロカカリヤA』の冒頭を引用して、その声調が同じであることをご覧ください。

「 道を歩きながら石を蹴っとばしてごらん。何を考えているの?さあ言ってごらん。何処にいるの?季節は教えてあげてもいい。春だよ。路端の、石がころげて行った先の、黒くしめった土くれ。みどりいろ。何が……、何が生えてくるのだろう?いや、君の心にだよ。何か植物みないなものが、君の心にも生えてきてるのじゃないの?

空を見上げてごらん。眼には見えないラッパのような管が、君の眼からするすると延びて、天に向かって拡がらなかった?そして天が一杯、君の眼に流れこみはしなかった?」

このやうに二つの引用を比較して並べて見ると、前者の、

「例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出して其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡る事だろう。僕の心に繋ろうとする努力がありありと見えて来る。」と、

後者の、

「空を見上げてごらん。眼には見えないラッパのような管が、君の眼からするすると延びて、天に向かって拡がらなかった?そして天が一杯、君の眼に流れこみはしなかった?」

といふ文章が、全く同じ発想で書かれてゐることがお判りでせう。

見る事によって、内部が外部と交換されるのです。既に此処に、陰圧の眼を持って全てを眼から胸の中に吸い込む、しかし叙情を「蒸留」して生まれる前のS・カルマ氏を見ることができます。

ここにある呼びかけは一体何を意味してゐるのでせうか?


2。1 話法の問題(一般)

文法学の視点から結論を云へば、ここにある文法上の問題は、話法の問題です。そして、更に話法を敢へて次の3つに分けます。

(1)人称:一人称、二人称、三人称とそれぞれの単数・複数
(2)話法:誰が話してゐるのか。直接話法と関節話法。
(3)時制:その文が含む時間、即ち過去、現在、未来、そして時間のない文(非現実話法の文)

人称の問題も時制の問題も、話法の問題に含まれ、実際には話法一つの問題なのですが、ここでは、ここにある呼びかけが一体何を意味してゐるのかをより深く考へるために、人称と時制を其の外に出して三つに分けて論じます。

さて、上の3つを念頭に置いた上で、個別言語に関係なく、作家が小説を書くと其の構造は次のやうになつてゐます。

作家>話者>登場人物

注意すべきは、作家と話者は同一の者ではないといふことです。其の上で、この構図に従へば、

安部公房>相手に呼びかける話者>コモン君

といふ事になります。

この小説の話者は、コモン君に二人称で呼びかけてゐるといふ事になります。そして、安部公房といふ作者が、作品の世界に其のやうな構造を用意したといふ事です。[註2]

[註2]
この小説構造の最も複雑な小説が『箱男』です。この作者と話法の構造については、「『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く~」(もぐら通信第34号)で詳述しましたので、これをご覧下さい。


2。2 安部公房独自の話法(個別)

さて、それでは更に考へを進めて、この話者と話者に呼びかけられるコモン君の関係は、どのやうな関係なのでせうか?この答へがもう少し先の段落に書かれてゐます。

「ぼくらの病気はとりもなおさず、あのぼくとこのぼくが入れちがいになって、顔はあべこべの裏返しになり、意識が絶えず顔の内側へおっこちてしまう……、それが植物になることさ。」(全集第1巻、235ページ上段)

これは、「ぼく」といふ一人称の中に、もう一人「ぼく」といふ一人称がゐるといふことを言つてゐるのです。安部公房の話法は内省的であり、普通の話法とは違つて、この分複雑です。そして、これは其のまま、安部公房の終生変はらぬ作者・読者論であり、主観・客観論であり、主語・述語論であり続けました。

例へば、論ずる対象を問はず、政治的な社会現象を論ずる場合でも、同じ全集第2巻にあるエッセイ、『デンドロカカリヤA』の前年に書かれた1948年の『平和について』に於いても、「僕の中の「僕」」に向かつて、話者(この場合の話者は、小説ではなくエッセイであるので安部公房自身)が話かけ、語りかけてゐます。(同巻、57ページ)

『終わりし道の標べ』では、同じ論理が感覚の問題としては、「二重感覚」と呼ばれてゐます。(「第三のノートー知られざる神ー」、全集第1巻、363~369ページ)合わせ鏡の世界にゐる再帰的な自己のことです。[註3]

[註3]
安部公房の此の再帰的な自己については、『安部公房の変形能力17:まとめ~安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像~』(もぐら通信第17号)に詳述しましたので、これをご覧下さい。この論考から以下に一部の引用をします。:

「安部公房は、この再帰的な人間の持つ二重感覚を『終りし道の標べに』の「第三のノート―知られざる神―」中で、高という登場人物の口を借りて、「二重感覚」とか、「二重の判断や意志」とか、また「二重の意識」とか、そして「あの感覚」と言わせております。」



これは、私の中の私、一人称の中の一人称、自己の中の(もう一つの)自己といふことであり、後者の私、後者の一人称、後者の自己は、実は前者の私、前者の一人称、前者の自己から見れば、実は三人称の役割を演じてゐるのです。

上記の『平和について』では、このことを次のやうに言つてゐます。前後の脈絡がわかると一層よく理解ができますが、引用の量と解説が多くなりますので、最小限の量に留めて引用します。

「そして実用主義的にその人間学が「君」の(僕の中の)平和を創り出すだろう。(略)「彼」のということさえ危険だ。平和はあくまでも「君」の、そして其処に於けるものだから。」

「僕の中の「僕」」を巡つて、僕と君と彼が登場するのです。これらは皆、安部公房の意識の内部の一人称、二人称、三人称でありますから、それを示すために「僕の中の「僕」」と、後者の僕には一重鉤括弧が付されてをります。この「僕」が、「君」であり、「彼」なのです。そして、これらの人称が、そのまま安部公房の小説の登場人物たちの関係であるといふことなのです。

そして、上記の3つの人称の関係は、安部公房の世界を理解するためのキーワードである存在、象徴、部屋、窓、反照、自己承認の関係と繋がつてをり、これらの用語と一緒に論ぜられてゐて、23歳の安部公房が哲学談義を交した親しき友、中埜肇宛の手紙に書いてゐる「新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)」(『中埜肇宛第10信』全集第1巻、270ページ)といふ安部公房独自の哲学の骨格をなしてゐるのです。

エッセイ『平和について』は、謂はば(同じ年に書かれた)『終りし道の標べに』の理論篇といふことができ、ここに書かれてゐる論理を以って、そのまま『終りし道の標べに』といふ実践篇を、それも上記に引用した「二重感覚」は勿論のこと此れも合わせて、理解することができます。安部公房独自の哲学については、『安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」入門』と題して稿を改めて論じます。

閑話休題。

さて、コモン君の話です。

このやうに考へて来ますと、

「ぼくらの病気はとりもなおさず、あのぼくとこのぼくが入れちがいになって、顔はあべこべの裏返しになり、意識が絶えず顔の内側へおっこちてしまう……、それが植物になることさ。」

とある「あのぼく」と「このぼく」の関係は、

(1)「あのぼく」の中の「このぼく」なのか
(2)「このぼく」の中の「あのぼく」なのか

この二つの「ぼく」があつて、この関係そのものが既に最初から、交換関係を前提にし且つ「既にして」(超越論的に)結果してゐることが判ります。このやうな関係にある「ぼく」には時間の先後は無いのです。従ひ、「あのぼく」が「このぼく」と入れ替わり、「このぼく」が「あのぼく」に入れ替わることは、時間の無い、幾何学的な変形なのです。さうすると、

安部公房>相手に呼びかける話者>コモン君

の話法の3階層の構造の中では、

作者>作者の中の「僕」>作者の中の「僕」の中の「僕」

となり、更に一重鉤括弧との関係で考へを進めれば、

作者>作者の中の僕>「作者の中の僕」の中の「僕」

となり、いや、作者の中にも「僕」がある筈だと考へれば、世間で安部公房と呼ばれる作者の僕を一番上位の階層の一人称であるので、全ての僕に一重鉤括弧をつけて呼べば、

作者の僕>作者の中の「僕」>「作者の中の「僕」」の中の「僕」

といふ事になりませう。

これは、そのまま『デンドロカカリヤA』の世界では、

安部公房>相手に呼びかける話者>あなた(と呼びかけられる読者であるあなた)

となつてをり、安部公房の作者の僕の中の、その「僕」が呼びかける、「作者の中の「僕」の中の「僕」」といふ此処この場所にゐる「あなた」であるといふ複雑な位置にゐる(読者である)「あなた」なのです。

この関係を示してゐるのが、例へば次の箇所です。話者の声調は変はりません。

「そうすれば、そら、もう夕方だろう、あたりがすっかり冷えて、きっとぼくらの坐っているところが石段かなにかで、特別寒いからなんだと思うにきまっている。だから、気にしなくてもいいんだ。まだ植物になってはいけないというぐらい、誰でも知っている。誰も君を咎めたりしやしないよ。」(全集第1巻、235ページ上段)(傍線筆者)

ここで「ぼくら」と二人称複数に呼ばれてゐるのは、話者と「あなた」、つまり、次の下線部の「ぼくら」、即ち(B)と(C)のことなのです。

作者の僕(A)>作者の中の「僕」(B)>作者の中の「僕」の中の「僕」(C)

さて、ここまでが冒頭部分の人称と話法の様子です。

この冒頭の導入部と、小説の本文の開始の間に、安部公房は「コモン君がデンドロカカリヤになった話」といふ一行の立て札を立ててゐます。この趣向は既に『S・カルマ氏の犯罪』や『デンドロカカリヤB』を思はせます。

さて、この立て札または案内人の次に始まる本文の人称と話法は一体どのやうになつてゐるでせうか。本文の文章は、次のやうに始まつてゐます。

さて、コモン君のことを思い浮べてごらん。無理だって?なに、どんな具合にでもいいんだよ。名前のとおりでいいんだよ。コモン君がコモン君さ。ぼくの友達だったんだよ。なに?君の友人だって?むろんそれでもいいさ。要するにコモン君でありさえすればいいんだよ。」(全集第1巻、235ページ下段)(傍線筆者)

「さて、コモン君のことを思い浮べてごらん。」と話者の呼びかける相手は誰なのでせうか?誰に「コモン君のことを思い浮べてごらん」と言つてゐるのでせうか?

これは、読者であるあなたに呼びかけてゐるのです。あなたは、いつの間にか、さうすると、

作者の僕(A)>作者の中の「僕」(B)>作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)(C)>「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)

といふ安部公房独自の話法の構造の中で、

「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)

といふ階層にゐる「コモン君」に、いつの間にか、あなたはなつてゐるのです。即ち、読者は「作者の中の「僕」の中の「僕」(C)」を通じて、「「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)」がいつの間にか現れて、あなたの意識の中に入つて行くのです。いや、あなたがコモン君(D)の意識の中に入つて行くのです。

そして、このコモン君といふ主人公は、話者である「作者の中の「僕」(B)」の友達であり、しかも同時に「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)(C)」とも友達であるといふのです。

これで、話者と読者が繋がる事になるのです。

しかし、『デンドロカカリヤB』では、『デンドロカカリヤA』の冒頭の導入部にある叙情的な呼びかけは削除されてゐて、最初からいきなり「コモン君がデンドロカカリヤになった話」といふ立て札で始つてゐます。

これは、前篇冒頭に掲げたチャート「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」を見ますと、『デンドロカカリヤB』の前に『赤い繭』『魔法のチョーク』、そして芥川賞受賞作『S・カルマ氏の犯罪』といふ三人称で書かれた小説が並んでをりますので、その延長で『デンドロカカリヤB』が書かれたといふことを意味してゐます。とすれば、『デンドロカカリヤB』の話法の構造は、『デンドロカカリヤA』での、

安部公房>相手に呼びかける話者>コモン君

といふ構造ではなく、

安部公房>相手に呼びかけることのない話者(=単に話者としてある話者)>コモン君

といふ構造に変換されてゐることがわかります。即ち、

安部公房>話者>コモン君

といふ構図になり、話者がコモン君を語り、話者がコモン君の意識の中に入つて此れを語るといふ話法に変はつてゐます。これが、リルケ風の叙情を取り除くための蒸留法であつたといふ事になります。

しかし、忘れてはならないのは、上述しましたやうに、

作者の僕(A)>作者の中の「僕」(B)>「作者の中の「僕」」の中の「僕」(C)

といふ安部公房独特の内省的な構造は変はらないといふ事です。

また特記すべきは、この蒸留法の成功は、

作者の僕(A)>作者の中の「僕」(B)>「作者の中の「僕」」の中の「僕」(=「あなた」)(C)>「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)

といふ『デンドロカカリヤA』の話法の構造の最下層の「「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)」を取り去って、『デンドロカカリヤB』が成り立つてゐるといふ事です。

まとめますと、


3。 まとめ

『世紀の歌』で宣言した涙の壺の蒸留法とは、『デンドロカカリヤA』の話法の構造に於いて、

(1)「相手に呼びかける話者」を「相手に呼びかけることのない話者(=単に話者としてある話者)」に変更した事
(2)話法の最下層の「「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)」の階層を取り去つた事

この二つからなるといふ事になります。

「ぼくらの日々を乾かして
 涙の壺を蒸溜しよう
 ミイラにならう
 火を消すものがやつてきたら
 ぼくら自身が火となるために!」

この蒸留法を使つて、安部公房は、ミイラになつたのです。死者として此の世を生きる事になつたのです。しかし、これは生死に関する論理としては、ニーチェでありリルケである事には変はりありません。即ち、自らが存在として時間の中に生きる者、即ち未分化の実存、即ち棺桶の内部にゐるミイラとして生きる事だといふ『世紀の歌』の志は、かうして小説の上で実現する事ができました。

棺桶といふ閉鎖空間の内部にゐて、未分化の実存として生きる(死者としてある)ミイラの此の姿は、『デンドロカカリヤB』(1949年)を書いた十三年後に刊行された『砂の女』の主人公仁木順平が、話の最後に安部公房の(リルケに学んだ)存在感覚である透明感覚を水に発見して(結末共有)、この砂の穴は存在となつたのであるから、(部落といふ社会の中にある謂はば「落とし穴」としてある)存在の中で(社会から見れば失踪者、即ち謂はば死者として)生きて行かうと決心する其の姿、即ち社会の中に存在を求めようと決心した安部公房の姿に通じてをります。

この方針は『燃えつきた地図』まで続き、この小説を書き終えた1968年の三田文学誌上での秋山駿によるインタビューでは、次回作の構想を語り、次の作品は乞食とチェ・ゲバラの話だと述べてをり、1970年の三島由紀夫の死を境に其の通りの小説を1973年に『箱男』として出し、前期20年の後半10年での社会の中に存在を求める方針を逆転させて、存在の中に社会を求めるといふ方針に転換をして、後期20年の傑作群を書いてゐるのは、読者周知の通りです。[註4]

[註4]
「『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く~」(もぐら通信第34号)の[註6]を引用してお伝へします。

[註6] 
「この次は、すでに失踪してしまった状況で、失踪の向こうにある世界を書いてみたい。乞食とチェ・ゲバラの 話です。ぼくはふり向くことがいやなんだ」(『私の文学を語る』全集第22巻、45ページ上段)安部公房が、 ここに至るまでにどんなに苦労をしたかは『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)をお読み下さい。]



「火を消すものがやつてきたら
 ぼくら自身が火となるために!」

といふ二行は、安部公房が自らの命を掛けて、文字通りに死ぬ覚悟で日本共産党員にまでなつて、言語による意識の革命、即ち存在の革命を起こさうとしたことを歌つてゐます。[註4]

[註4]
「『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く~」(もぐら通信第34号)の[註6]を引用してお伝へします。

[註6] 
「この次は、すでに失踪してしまった状況で、失踪の向こうにある世界を書いてみたい。乞食とチェ・ゲバラの 話です。ぼくはふり向くことがいやなんだ」(『私の文学を語る』全集第22巻、45ページ上段)安部公房が、 ここに至るまでにどんなに苦労をしたかは『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)をお読み下さい。]



「火を消すものがやつてきたら
 ぼくら自身が火となるために!」

といふ二行は、安部公房が自らの命を掛けて、文字通りに死ぬ覚悟で日本共産党員にまでなつて、言語による意識の革命、即ち存在の革命を起こさうとしたことを歌つてゐます。[註5]

[註5]
安部公房の考へた革命が全て言語との関係であることの詳細は、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)をお読み下さい。



後年安部公房は当時を振り返つて、革命について次のやうに語つてゐます。もぐら通信第29号『安部公房と共産主義』より引用します。

「[註18] 
ナンシー・S・ハーディンとのインタビュー、『安部公房との対話』(全集第24巻、478ページ下段)で、 安部公房は次のように、『第四間氷期』と革命について述べて言います。これは、結局、安部公房を発見した埴谷雄高の至った「存在の革命」と同じことを、安部公房は言っているのです。それを「内部の対話を誘発するこ と」と言っております。これは、その人間の意識の革命のことを、ふたりとも言っているのです。 

「ーまだ話題にしていない小説のひとつに『第四間氷期』があります。あとがきのなかで、この小説の目的のひ とつは「読者に、未来の残酷さとの対決をせまり、苦悩と緊張をよびさまし、内部の対話を誘発すること」(『第 四間氷期』二七二頁)だと書かれていますが。 
 安部 ひとことだけ説明します。ぼくは革命というものに決して反対ではありません。しかし、強調しておき
たいのは、革命ではそれを望む人々が逆に殺され傷つけられたりすることが少なくないということです。革命家が自覚して己の幸福のためよりもむしろ革命のために進んで苦しんでいるならば、自分の命を賭ける自信や、革命で殺されてもよいと信じる意志がないならば、革命など起こせません。反対に、もしそれほどの強い意志があるならば、当然起こすべきです。それが『第四間氷期』のテーマです。」(傍線筆者)」

さて、再度まとめますと、上述の通り、『世紀の歌』で宣言した涙の壺の蒸留法とは、『デンドロカカリヤA』の話法の構造に於いて、

(1)「相手に呼びかける話者」を「相手に呼びかけることのない話者(=単に話者としてある話者)」に変更した事
(2)話法の最下層の「「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)」の階層を取り去つた事

この二つといふ事になるといふ結論ですが、『デンドロカカリヤA』と『デンドロカカリヤB』の間にある『赤い繭』『魔法のチョーク』『S・カルマ氏の犯罪』の、長短を問はぬ主要な画期的な安部公房の作品は、確かに其の通りの話法となつてをり、主人公の人称はいづれも三人称となつてをります。

安部公房が詩人として世界を歌ふときには一つの特徴があると冒頭いひました。それは、現実の世界と其の中にある諸物諸事諸人に対して、呼びかけるといふ事であり、次に自問自答するといふ事ですが、『〈今僕はこうやつて〉』といふエッセイに、次の、言語で表現する事に関する安部公房の禁忌(タブー)のある事を、同じ引用箇所の後半に着目戴いて、締めくくりと致します。

「例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出して其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡る事だろう。僕の心に繋ろうとする努力がありありと見えて来る。さあ、此処で僕達が若し最善を発揮しようとしたならば一体何うすべきなのだろうか。こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜く可きであろうか。いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への固定に過ぎないのではあるまいか。[註6]

[註6]
このエッセイの全体と上の引用の箇所についての詳細な分析と解読は、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)の[註15]に詳述しましたので、これをご覧ください。



詩人としての安部公房が小説家に変貌するに当たり、上で結論づけた、上記(1)の「相手に呼びかける話者」を「相手に呼びかけることのない話者(=単に話者としてある話者)」に変更した事といふ此の事実は、19歳の『〈今僕はこうやつて〉』の上記引用傍線部の考への、小説の世界での実行であつて、「相手に呼びかける話者」を招来すれば、この生命を固定させてしまひ殺してしまふ事になるといふ恐れから来る禁忌の、やはり、命を命として其のままに大切にしたいといふ気持ちが、この自然の秘密を文字とテキストの上では秘匿しようと決心したといふ事の結果であるといふ事になります。

つまり、シャーマン安部公房の秘儀の式次第といふ小説作法上の様式を遵守する限り、この点でも、即ち話法の視点からも文法的に、詩人としての命を秘匿し守つたまま、安部公房は詩人のままに小説家として生きることができるのです。

このことを可能ならしめた、上記の蒸留法のうちの(2)の「話法の最下層の「「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)」の階層を取り去つた事」は何によつて可能であつたかといふと、

作者の僕(A)>作者の中の「僕」(B)>「作者の中の「僕」」の中の「僕」(=「あなた」)(C)>「作者の中の「僕」の中の「僕」(=「あなた」)」の中のコモン君(D)

といふ構造を、

作者の僕(A)>作者の中の「僕」(B)>「作者の中の「僕」」の中の「僕」(=「あなた」)(C)

といふ構造の「あなた」(=「作者の中の「僕」」の中の「僕」)を「彼」といふ三人称に変える事によつて、

安部公房>話者>三人称による登場人物

といふ構造を確立することができたからです。

これは、上に言及した『平和について』の同じ箇所を再度引用しますので、僕といふ一人称と、(二人称として呼びかけの対象たり得る)僕の中の「僕」と、(三人称として呼びかけの対象たり得る)僕の中の「僕」の3つの人称の関係について、安部公房の言つてゐる次の言葉を吟味して下さい。話の前後は無視して、論理だけを考察して下さい。

「そして実用主義的にその人間学が「君」の(僕の中の)平和を創り出すだろう。(略)「彼」のということさえ危険だ。平和はあくまでも「君」の、そして其処に於けるものだから。」

この「彼」と呼ばれて、「僕の中の「僕」」を脅かす「僕の中の「彼」」といふ三人称については、『安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」入門』と題して稿を改めて詳述しますが、今少しだけ考へて見れば、これは安部公房の小説に出てくるすべての監視者、追跡者、例えば『赤い繭』の警察官、『デンドロカカリヤ』のK、『S・カルマ氏の犯罪』の緑色の服の監視者、『密会』の盗聴者である馬と其の盗聴システム等々、あなたの思ひ出すままに、幾らでも類似の場合の登場人物の名前を挙げることができるでせう。

さて、以上のことを一言で云へば、長い道のりながら、安部公房独自の内省的な話法の中で、

安部公房>相手に呼びかけない話者>三人称の登場人物(例えば『デンドロカカリヤB』のコモン君)

といふ落ち着くべき(見かけ上は)普通の構造に、やつとこれで、なつたといふ訳です。

さて、それでは、表面上、形式上、やつと此の普通の小説の構造に至つた安部公房が、その小説の内容として一体何をどのやうに書いたのか、即ち、結末継承と冒頭共有・結末共有の成り立ちの論理の話を『安部公房の論理学』と題して、二進数の数学(ブール代数)と論理学の視点から、稿を改めてお話致します。

『安部公房の論理学』では、冒頭に掲げた話法の問題の3つの要素、即ち、

(1)人称:一人称、二人称、三人称とそれぞれの単数・複数
(2)話法:誰が話してゐるのか。直接話法と関節話法。
(3)時制:その文が含む時間、即ち過去、現在、未来、そして時間のない文(非現実話法の文)

この3つのうち、この論考では(1)と(2)の話でしたが、『安部公房の論理学』では、(3)に焦点を当てて、文法の視点から、安部公房の言語機能論と超越論を含めて、論じることにもなリます。