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2016年10月27日木曜日

ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与は何を意味してゐるのか?(2)

ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与は何を意味してゐるのか?(2)

村上春樹が『職業としての小説家』の中で、今回のBob Dylanの受賞を拒否ではなく、これはむしろ無視といふべき挙に出たアメリカ人らしい理由を、歌手の言葉ではないが、レイモンド・チャンドラーとネルソン・オルグレンといふ二人の小説家の言葉を引用して語ってゐて、これが其の儘Bob Dylanの、この拒否することさへしないといふ無礼な態度と其の理由になってをりますので、これを伝へて、村上春樹自身の言葉に代えて、さうして、前回(1)で私の結論した、Bob Dylanが受賞したら、もはや村上春樹の芽ははないだらうといふことのもう一つの根拠として、また村上春樹自身による同じことの説明の言葉として、お届けします。

ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人には、次のやうな人たちがをります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/02 08:08 UTC 版)
ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人
1930年 - シンクレア・ルイス
1936年 - ユージン・オニール
1938年 - パール・S・バック
1949年 - ウィリアム・フォークナー
1954年 - アーネスト・ヘミングウェイ
1962年 - ジョン・スタインベック
1976年 - ソール・ベロー
1978年 - アイザック・バシェヴィス・シンガー (イディッシュ語で創作)
1987年 - ヨシフ・ブロツキー (ソヴィエト連邦からの亡命者。主にロシア語で創作)
1993年 - トニ・モリソン
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/02 08:08 UTC 版:http://www.weblio.jp/wkpja/content/アメリカ文学_ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人)

これらは皆小説家か詩人であって、歌手ではありません。ですから、今回のノーベル文学賞の受賞は、前回お伝へしたノーベルの遺言の主旨と其の選考方針から言っても、可笑しい。以下理屈抜きに、村上春樹からの孫引きです。

「レイモンド・チャンドラーはある手紙の中で、ノーベル文学賞につてこのように書いています。「私は大作家になりたいだろうか?私はノーベル文学賞を取りたいだろうか?ノーベル文学賞がなんだっていうんだ。あまりに多くの二流作家たちにこの賞が贈られている。読む気もかき立てられないような作家たちに。だいたいあんなものを取ったら、ストックホルムまで行って、正装して、スピーチをしなくちゃならない。ノーベル文学賞がそれだけの手間に値するか?断じてノーだ」」

また、ノーベル文学賞ではないが、そもそも国家レヴェルの文学賞といふものに対するネルソン・オルグレン(『黄金の腕を持った男』『荒野を歩け』の著者)が、「カート・ヴォネガットの強い推薦を受けて、一九七四ねんにアメリカ文学芸術アカデミーの功労賞受賞者に選ばれたのですが、そのへんのバーで女の子と飲んだくれていて、授賞式をすっぽかしました。もちろん意図的にです。送られてきたメダルをどうしたかと尋ねられて、「さあ……」どこかに投げ捨てたような気がする」と答えました。『スタッズ・ターケル自伝』という本にそんなエピソードが書いてありました。」

アメリカといふ国は、ヨーロッパといふ父親に独立宣言といふ絶縁状を叩きつけて孤児になる道を選んだ国であり、従ひ逆にヨーロッパ文明を極端に先鋭化した其の鬼子といふべき国家ですから、恐らく芸能に近い通俗小説といふエンターテインメント(娯楽)の文学は、上のチャンドラーの手紙の文面を見ますと、当時チャンドラーがノーベル文学賞といふ期待や希望がアメリカにあったことが推察できますけれども、しかし通俗的な文学が如何に庶民大衆に歓迎されて人気を博しても、死語に等しい「純文学」といふ日本語を使えば、純文学ではない文学にばかりこれまでの受賞者がアメリカから選ばれてゐるだけであって、やはりヨーロッパからみて鬼子の国の通俗レヴェルの作家(これは決して否定的な意味では使ってゐるのではありません、誤解なきよう)には授与されてはこなかったのです。

しかし、今回のBob Dylanは歌手であって、歌といふ芸能そのものである分野の、しかし世界的なとはいへ、芸能人です。つまり文学の世界でいふならば、レイモンド・チャンドラーに当たる階層の通俗歌手です。

それにヨーロッパ文明にあるノーベル賞が文学賞を与へるとなると、恐らくは世界的な芸能歌手であるBob Dylanの胸中は、チャンドラーの反骨の言葉と変わらぬ思ひであったのではないでせうか。

村上春樹は、同書の中で、自分は「いわゆる「小説言語」「純文学体制」みたいなものからできるだけ遠ざかったところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」」ことをしたかったし、さうしてきたと語ってをり(同書54ページ)、さらに同時に「「純文学」装置に取り込まれることなく」、この「装置」を自分の世界の部品として入れることを積極的に回避して小説を書いてきたと明言してをりますので(同書272ページ)、チャンドラーの思ひは、そのまま、アメリカ文学と其の文化に通暁してゐる村上春樹の思ひと考へて良いでせう。

さうして、今回のノーベル文学賞の選考委員の選考結果が、このやうに軸のブレたものであり、世界的な通俗歌手に授与することを決定したのであれば、同列にあることを自覚してゐる村上春樹に将来授与されることはないのです。

このやうなチャンドラーやオルグレンの引用をする村上春樹は、意外にも反骨の人であるのかも知れません。もっとも、イスラエルでの文学賞で卵と壁の譬喩を使った講演は、稚拙な政治性を発揮してしまってゐて、全く戴けないものでありましたけれども。









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