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2016年10月14日金曜日

安部公房の読者のための 村上春樹論 (上)

安部公房の読者のための
村上春樹論
(上)

目次

(1)村上春樹論(上):安部公房と村上春樹の共通点
(2)村上春樹論(中):Baseballとは何か?:baseballは旧約聖書の創世記に従って演じられるゲームである。
(3)村上春樹論(下):まとめと印象

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ある読者より私に電話あり、話の中で、私が今まで安部公房を論じ、三島由紀夫を論じたのであれば、今度は村上春樹を論じては如何ということを言われて、これは思いもかけぬことでしたが、その後の数週間の成り行きで、これもまたご縁というべきでありましょうけれども、村上春樹の小説を読む機会を得て、ここに村上春樹論をお届けするものです。

安部公房の読者のためのと銘打ったのは、村上春樹には、安部公房の文学の論理と形象(イメージ)に共通するものがあるからであり、それは、安部公房の読者でなければなかなかわからない共通性であるのですから、そのような題としたわけです。村上春樹の読者は、話したところ、この共通性は知りませんでした。小説の読み方が異なるのです。

一番の共通性は、村上春樹はアメリカ文学に学んだ人であることから、安部公房の読者ならご存知のことと思いますが、安部公房は若い時代に二つアメリカに関する論考を書いておりますし、この興味の持続は最後まで変わることなく最晩年に書く予定であったアメリカ論にまで至っておりますので、このアメリカという国の(ヨーロッパから逃亡して来てアメリカという国家をつくったー逃亡と国家、これも安部公房の世界に通じるー)白人種の創造した文物の持つ、古代の神話の無いことに原因する其の贋物性という観点からも、二人の文学には互いに相照らすものがあるのです。

勿論、全く村上春樹に独自のものもあります。最初に安部公房との事実に関する共通点を挙げて、次に村上春樹の文学の根底にある独自の物事を二つ挙げ、更に此の二つを詳細に論じることをしながら、そのことによって村上春樹の世界で安部公房と共通する動機(モチーフ)を列挙してそれぞれを比較して論じ、村上春樹の文学を安部公房の読者に伝えるという順序を取ることにします。同時にまた、村上春樹の考える論理を知ってみれば、幾つかのことについて、それは三島由紀夫の論理と形式上全くと言って良い位に同じですので、その論理に言及する範囲で、三島由紀夫との関係についても論ずることにします。

1。安部公房との事実に関する共通点
安部公房との人生と事実に関する共通点を挙げると次の4つがあります。

(1)芥川賞の選考において、滝井孝作(私小説の作家)によって評価されたこと。
村上春樹の処女作『風の歌を聴け』に関する瀧井孝作の選評。「外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。(中略)しかし、異色のある作家のようで、わたしは長い目で見たいと思った」。(https://ja.wikipedia.org/wiki/村上春樹
(2)学生結婚をしたこと。
(3)シナリオを書いたこと。
安部公房はラジオドラマと映画のシナリオを書いた。村上春樹は早稲田大学で演劇科の学生でシナリオライター志望だった。後者のシナリオライターとしての感覚(センス)は、小説の中の科白によく現れている。

上記(1)に挙げた滝井孝作という、志賀直哉に師事した私小説の大家(というべきでありましょう)は、1935年、創設された芥川賞の選考委員となってから1982年に同賞選考委員を辞するまで、その任に当りました。この間、安部公房や村上春樹という、私小説とは正反対の作風を支持したということは、これら二人の主要な主題が不在の父親であるということを考えますと、実は私小説というものは、普通文学の講義や教科書にヨーロッパの近代文学を基準にして言われるような否定的なものでは全然なく、私たち日本人の歴史的・伝統的な普通の論理と感覚を基準にして考えれば、ヨーロッパの考え方に抵抗して日本人の論理と感性を守り大切にしようとした、従い、近代の、明治以来の日本人の創造した家族小説(ファミリー・ロマン)ではないかと考えることができます。それは、失われた家族小説であるのかも知れない。私は村上春樹を読んで、この考え方に至りました。

付言すれば、滝井孝作という作家は、その人生を拝見しますと、苦労も多く、しかし立派な人生を全うした、人間として尊敬すべき方であり、慧眼の士です:https://ja.wikipedia.org/wiki/瀧井孝作

2。安部公房との言葉と形象に関する共通点
安部公房との言葉と形象に関する共通点を、順不同で挙げると次のようなものがあります。

(1)内部と外部の交換
(2)凹の形象
(3)地下世界
(4)The End of the World(村上春樹は「世界の終わり」、安部公房は「世界の果 
   て」)
(5)風
(6)隙間
(7)不在の父親
(8)贋
(9)壁
(10)塔
(11)Kafka
(12)ドストエフスキー
(13)言語機能論
(14)アメリカ
(15)両手

3。村上春樹の世界
村上春樹の文学にとって重要なる、主要な動機(モチーフ)は、次の2つです。

(1)baseball game
(2)地面に穴を掘るということ。

Baseballを明治時代に正岡子規が野球と翻訳しましたが、やはり野球ではなく、村上春樹にとっては英語の綴りのままの原語のbaseball gameが、その文学にとって甚だ重要な意味を持っていますので、敢えて英語で名前を挙げた次第です。これについては後述します。

地面に穴を掘るということについては、もぐらである安部公房の読者には説明不要でありましょう。しかし、穴を掘る意味が互いに異なるのです。安部公房は自らの身を其の中に投じて入れ、他方、村上春樹は、自分自身以外のすべてのものを穴の中に入れて土をかぶせて埋めてしまいます。これが何を意味するかについては後述します。


3.1 baseball game
(1)この作家にとって本質的に重要なことは、baseball gameを見て、小説が書けるという一種の霊感を得たということ。このことの意味は、普通に人が考える以上に、この作家の文学にとって本質的です。

1978年4月1日、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦、ヤクルト・スワローズ対広島カープの試合を観戦中に小説を書くことを、村上春樹は思い立つ。村上春樹は前者の熱烈なファン。1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが二塁打を打った瞬間に、小説が書けるという一種の霊感を得たということです。

参照:

この事実の意味するところは、言語の世界に置き換えれば、一行の文を書けば、世界が二つ生まれるということを知ったということです。つまり、二つの世界の存在する両義性を一行の文で表すことができるということを知ったということです。

以下、英語のWikipediaより引用します。よくこの一文を味わってください。やはり、野球とbaseball gameでは、それぞれの国民にとっての意味が全くことなっているのです。私は『安部公房のアメリカ論~贋物の国アメリカ~』(もぐら通信第22号)で、次のように書きました。

また、Baseballと呼ばれる、アメリカの国技ともいうべきスポーツもまた、同様な事情を、即ち忘却の上の神聖を表していて、そこに根差しているのではないでしょうか。(そして、アメリカ人の発明したスポーツで不思議なことは、アメリカンフットボールというサッカーの贋物もそうですが、何故いつも攻める側と守る側という順序が規則正しく交替するのかということです。本来のフットボール、即ちサッカーは、そうではありません。攻守が絶えず時間の中で流動的に入れ替わります。)そして、チユーイングガム。Baseballの選手は、何故チューインガムを噛むのでしょうか。これについて論じると、アメリカと贋物から少し筋道が外れますので、この主題は、また稿を改めることに致します。

さて、この野球論を念頭に置いている此の村上春樹論は、これから村上春樹を安部公房との比較で論じながら、結局『安部公房のアメリカ論~贋物の国アメリカ~』で言及した野球論、baseball論の一部となります。

英語のWikipediaには、次のようにあります。

“He was inspired to write his first novel, Hear the Wind Sing (1979), while watching a baseball game.[20] In 1978, Murakami was in Jingu Stadium watching a game between the Yakult Swallows and the Hiroshima Carp when Dave Hilton, an American, came to bat. According to an oft-repeated story, in the instant that Hilton hit a double, Murakami suddenly realized that he could write a novel.”

二塁打を打った」という英語をよく見てください。下線を付しました。私たちの野球とは意味が違うことがわかるでしょう。

Hilton hit a double.

アメリカ人は、日本人とは違って、ヒットを打つと、その値(value)を単に足し算しているのではなく、single, double, tripleと掛け算して計算しているのです。一つの二塁打ですが、一塁の2倍、即ち値はdouble、更に即ちバットを一閃すれば、二つの、二重の世界が同時に(同時にとは何か?ですが)現れるのです。

即ち、このgameの事実の意味するところは、言語の世界に置き換えれば、一行の文を書けば、世界が二つ生まれるということを知ったということです。つまり、二つの世界の存在する両義性を一行の文で表すことができるということを知ったということです。

これが、何故村上春樹にとって、このアメリカ人の選手の二塁打が極めて(というべきでしょう)重要かということの本質なのです。

しかも、その選手がアメリカ人であり、次のような3rd baseを一義的に担当する選手であるということに意義があるのです。以下、英語のWikipediaより引用します。:

Hilton was primarily a third baseman, but played several games at second base. 

この選手が一義的に三塁手だということは、村上春樹にとって、重要なことであり、このような選手として三塁に立つ人間の重要な役割である。誰にとってか?小説の主人公にとって。何故ならば、小説の主人公(仮にDave Hiltonだとしましょう)がバットを一閃した後走者になって、一塁二塁と走者として廻る(走る)が、3塁の守備についているplayerという役割を演ずる自分自身には永遠に達することができないからです。

つまり、主人公が攻める側の時には、Dave Hiltonは守る側であって、そのような位置にいること。つまり、小説の主人公がその世界にいる時には、その啓示を与えた人間は、反対側の世界にいて、3塁に立っており、前者の世界でbatを振ってhitを放ち走者(runner)になっても、後者の反対側の世界にいる3塁手には永遠に到達できないということなのです。Baseball gameの規則の通りに従って、いつも二つの世界は入れ籠になって交代して現れ、互いに交わることがない。

この筋立ては、第3作目の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や最後の作品『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』に見られます。他の作品にもある筈です。「野球」の構造が、村上春樹の小説の構造なのです。もしいうならば、処女作『風の歌を聴け』に始まり、2作目の『1973年のピンボール』や3作目の『羊をめぐる冒険』に章と章の間に置かれている、話の転換の印である方向を指し示す手と指や一本の樹木の絵柄も、二つの世界の交代を、場面転換や発想の転換として、示しているということが言えます。これらは、攻守を交代する印(サイン)なのです。

不思議なことに、本来は3作目にあたる筈の『街と、その不確かな壁』(文藝誌文学界、1980年9月号)は、その後の作品集にも収録されず、再刊もされていない此の作者が謂わば封印した作品には、この章間の図柄の記号は姿を消し、算用数字の連番になっています。この作品は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に発展する物語で、この作品の封印と算用数字による章間の表示とは、どこか深いところで繋がっているのかも知れない。これは仮説です。

さて、三塁手の話に戻ります。

2013年刊行の最新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年にあっては、かつての高校時代の親しい仲間たちのそれぞれを主人公が尋ねる時に、一人二人、一塁二塁と尋ねた後には、3塁手がフィンランド人と結婚して今はフィンランドに住む女性の陶芸家、則ち土に穴を掘って其の土から作る陶土の藝術家であるということから、この登場人物は地下世界に通じていて、主人公が故郷であるhome plate(本塁)に帰還する最後の特権的な位置を守っています。そうしてまた、重ねて言えば、この女性は主人公に対して主人公のことが当時実は好きだったと打ち明けるという趣向になっています。ここでもまた、二人の世界は二つになっていて、互いに出会うことがない。しかし、この三塁手の位置にいる陶芸家を通じて、主人公は故郷のhome plateに帰還する方向へと歩をすすめるのです。勿論、この小説でも方向へと歩をすすめるだけで、二つの世界は一致、交差はしない。

繰り返しますが、大切なことは、このHiltonという選手の守備位置は三塁であるということ。二塁までのhitでは、runnerとしては、三塁を経由しなければ、homeplateという故郷には帰還することができない。しかし、三塁手のHiltonは守備のhiltonであり、hitterまたはbatterとしてのHiltonではないので、Hilton(または村上春樹の主人公)は三塁のbaseを踏むことができずに二塁打で二塁までに留まり、従いhomeplateに、即ちhomeであるふるさとには、塁と塁をつなぐ線をrunningして連続的に時間の中では、帰ることができないのです。

つまり、Dave Hiltonが、時には二塁手を務めたということは、この選手は二塁と三塁に線を引くことの(繋ぐことの)できる選手だということなのであり、変な言い方ですが、村上春樹の小説の、batを一閃してrunner(走者)となって塁を走る主人公には、そのような可能性を持っていて、しかし到達することのできない三塁手として、三塁手は、二つの世界の攻守の交代の中で、あるということを、一行の英文から思い出して欲しい。

Hilton was primarily a third baseman, but played several games at second base. 

こうしてまた、村上春樹の世界は攻守の両側ですれ違い、行き違って、主人公はgameの規則に従って二つに分裂してしまい、それぞれの当事者である二人の主人公は普通にbaseball gameの規則に従う限り、永遠に出会うことがないのです。

これらのことを一言で、村上春樹のD.H.体験と呼ぶことにします。

しかし、分裂した二つの自己が出会う方法が一つだけあり、それが時間の逆流です。2塁のrunnerは、batterのhitによって飛んだballが内野手または外野手によって、地面に触れることなく一回で直接捕捉された場合には、次の塁へは進めないので、元の塁へと戻らねばならない。消極的ではあるが、この時に時間は逆流するというのが、baseball gameの規則です。この場合に、塁間にあって、runnerは敵方によって生きたり殺されたりするわけです。

3塁のrunnerは、しかし特別な位置にいます。3塁のrunnerは、2塁へ戻ることもできれば、実はhomeplateに戻る能力も持っている。今homeplateに戻ると書いたが、しかしこのことは同時に(同時にとは何か?である)、homeplateに時間を進めて塁を進め、時間の前進の流れに乗るということでもあるのです。即ち、3塁にいるrunnerは、2塁に戻るという時間の逆流(記憶の想起)と3塁からhome(ふるさと)に回帰するという時間の前進(であり且つ記憶の喪失)である二つの役割を担っているのです。

しかし、村上春樹がD.H.体験をした試合では、2塁まで到達したHiltonは、3塁までに至ったのでしょうか?多分、到達しなかったのではないでしょうか?(勿論これは記録を見ればわかることです。)もしそうであったら、村上春樹の文学は生まれなかった。何故ならば、3塁まで襲って、さらに、別のbatterがhitを打って、Hiltonという3塁手が3塁からhomeplateに帰還したら、村上春樹はいつものヤクルトスワローズのファンの一人として熱狂してスタンドで拍手を送るだけで、それを深く意識することはなかったであろうと思うからです。

そうすると、村上春樹という作家がmarathon runnerでありたいと願う気持ちの根底にあるのは、守備にいる3塁手としてのHilton(実は存在していない)または其のようにある自分が、特別な3塁という位置にいるrunnerとして、時間の逆流(記憶の想起)と時間の前進(記憶の喪失)の二つの役割を担っていることを意識し(あるいは無意識し)することのできるgameであること、即ち、攻撃側の一員として自分が厭う暴力的なbatを振ってhitを打ったことによってrunnerになることなく、暴力的なbatを振らずに、runnerの役割を演じることができるというということ、この動機が、何故この作家がマラソンを走る(runnerになる)かという、これが理由なのです。

更に其の上に、batを振ってhitを打たずにrunnerになった存在しない3塁手として、即ち仮想現実の世界(攻撃側から見ると守備の側)の時間を逆流もさせ得るし順流もさせ得るという特権的な地位を持ち、即ち、二つの敵と味方との立場の攻守ところを替え、交代してplayを演ずる二つの世界のそれぞれの役割を同時に演じることができて、また同時に記憶を忘却し(時間をhomeplateにも前進させることができて、つまりマラソンのゴールを目指すことができて)、且つ記憶を想起し、時間を二塁方向に逆流させることのできるという二役を同時に一人の人間として、そのdoubleの役割を演ずることが、runnerとしてできるからであるということになります。この時村上春樹の自己は、以下に引用しますが、プラハでのカフカ賞授賞式での演説で述べたような二つに分裂した15歳の自己が、二つに分裂することなく、マラソンにおいては、年相応の大人として一つになることができるのです。これが何故村上春樹がマラソンが好きで、marathon runnerなのかという理由です。

また、以上のことからわかるように、時間という視点から村上春樹のD.H.体験を眺めれば、この小説家の苦心するところは、いつも時間の処理だということがわかります。安部公房ならば、現実の諸要素を全て関数関係に変換して時間を捨象することによって、無時間の空間的な世界を立体的に造形するものを、この作家はそうはせずに、あくまでも直線的な時間のある世界を大切に最初に思っているのです。Baseballのrunnerは、baseの間の直線を走ら(runし)なければならない。即ち、安部公房の世界は立体的な構造を備えていますが、他方、村上春樹の世界は平面的な構成を取り、分裂した二つの自己と、それぞれの自己を反映させている二つの世界が、同じ水平面の上にあるのです。あって、それらが交代して記述されるのです。水平面の上下に分かれて。野球の規則のように, fieldと呼ばれる水平面で。

そして、自分自身はいつも其の水平面に立っていたい、baseball playerとして立っていたい。それ故に、自分以外のすべてのものを地中に埋めて、土をかぶせてしまうのです。村上春樹は、群像新人賞受賞作『風の歌を聴け』の後の第三作目の『街と、その不確かな壁』(1980年『文學界』9月号)で次のように書いています。

「僕はこれまでにあまりにも多くのものを埋めつづけてきた。 僕は羊を埋め、牛を埋め、冷蔵庫を埋め、スーパー・マーケットを埋め、ことばを埋めた。 僕はこれ以上もう何も埋めたくはない。 
しかしそれでも僕は語りつづけねばならない。それがルールだ」

そうして、その後この作品を謂わば封印して世に出しておりません。この論考の中で、それが何故かについて言及することになるでしょう。

村上春樹は、このような、作家として立つための豊かなD.H.体験をもたらした記念と感謝の念を、処女作『風の歌を聴け』では、デレク・ハートフィールド(D.H.)というアメリカの架空の作家としてD.H.を登場させて、Dave Hiltonに対して表明しているのです。誰にも知られぬように。勿論、読者には一番。


(続く)

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