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2016年7月31日日曜日

安部公房作『くぶりろんごすてなむい』 東鷹栖安部公房の会 旭川市立近文第一小学校にて2016年7月26日開催の記録

安部公房作『くぶりろんごすてなむい』 東鷹栖安部公房の会 旭川市立近文第一小学校にて2016年7月26日開催の記録



東鷹栖安部公房の会が、7月26日に、安部公房が奉天から日本に一時帰国していた時に2年ほど通っていた旭川市立近文第一小学校にて、安部公房作『くぶりろんごすてなむい』を朗読する会を開催しました。




この作品は、ラジオドラマで、発表は1960年1月1日。全集第11巻、331ページより収録されています。泥棒ねずみのお話という副題がついています。

登場人物は、

(1)くぶりろんご(ねずみ)
(2)ミケ(猫)
(3)おじいさん

以下のYouTubeをご覧ください。




2016年7月29日金曜日

安部公房と三島由紀夫の超越論:「明日の新聞」と死後の子供達への誕生日プレゼント

安部公房と三島由紀夫の超越論:「明日の新聞」と死後の子供達への誕生日プレゼント

安部公房と三島由紀夫は、ヨーロッパの哲学用語でいう超越論を共有していました。そして、その論理について通暁しておりました。

三島由紀夫については、既に12歳の時の詩『硝子窓』が、超越論の思考論理と形象による詩であることをお伝えしました。詳細は『三島由紀夫の十代の詩を読み解く31:12歳の超越論 『窓硝子』https://shibunraku.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html)をお読みください。

ここでは、三島由紀夫が自分の死後、子供達の誕生日に未来の時間から毎年誕生日のプレゼントが届くように手配をし、そのような配慮をして、この世を去ったという逸話が、三島由紀夫の論理が最後まで、いや死後もまた、超越論であることを示しています。

安部公房の場合には、安部公房の読者ならば皆ご存知のように、小説の中には往々にして「明日の新聞」という新聞が、主人公が世界の果てに至った時に、即ち主人公の死が身近に迫っている時に、「いつの間にか」「どこからともなく」、未来から配達されて、今日現在只今此処にあり(若い安部公房ならば哲学用語で、例えば処女作『終りし道の標べに』では「現存在(das Dasein:ダス・ダーザイン)」とい言いました)、主人公は「明日の新聞」を読むわけです。

安部公房全集全30巻を眺めますと、「明日の新聞」の初出は、短編小説『飢えた皮膚』(1951年10月1日)、安部公房27歳の時の此の作品の最後に「一週間後に、おれは北の国境に近い田舎町にいた。ここではもう厚い氷がはっていた。三日後れの新聞で、おれは女が発狂し、金が謎の破産をとげたという記事を見た。」とある「三日後れの新聞」が、これです(全集第3巻、72ページ下段)。

国境の傍の田舎町という境界域、国と国との隙間のごく近くにいるか、または隙間という差異にいる時に、即ち主人公が世界の果てにいる時に、三日という時差を以って、即ち「既に起こってしまっている」新しい事実として今日現在只今此処に配達されるのです。

このように、「明日の新聞」とは、「既に起こってしまっている」事実として、今日という(昨日から見れば)未来にやって来るのです。

もっとわかりやすく言えば、今日は明日の昨日、今日は昨日の明日というものの考え方であり、これは1日という時間の単位を過去と未来に及ぼして、過去の1日も未来に、未来の1日も過去に、現在の1日を未来にも過去にもするという論理、即ち時間の単位の交換ですから、この交換によって一次元の時間は存在しなくなり、消滅するのです。

これが、超越論の考えかたです。

三島由紀夫の贈る子供たちのための「明日の誕生日プレゼント」とは、「既に起こってしまっている」事実として、今日という誕生日の(昨日から見れば)未来にやって来るのです。

安部公房の読者ならば、この「明日の新聞」が、三島由紀夫が絶賛した戯曲『友達』(1967年初演)の最後に、舞台の上で役者が殺した主人公に向かって最後に読み上げる其の上演の日に現実に配達された実際の新聞であることを思い出すでしょう。何故当日の実際の新聞でなければならないのかは、この通りの理由でそうなのです。この筆を此の儘進めれば、戯曲『友達』の、超越論の視点での、作品構造論になります。

また、他にも出てまりましょうが、思い出すままに挙げれば、後期20年の長編小説の傑作『密会』(1977年)の最後に、やはり、主人公が世界の果てにまで逃走していたる閉鎖空間、即ち病院の地下室の中で、溶骨症の娘(幼い少女)を哀切に掻き抱きながら読む、「いつの間にか」「どこからともなく」未来から配達されて今日現在只今此処にある新聞が、「明日の新聞」であることを知っているでしょう。それは、次のような結末です。最後の段落を引用します。

「 ぼくは娘の母親でこさえたふとんを齧り、コンクリートの壁から滲み出した水滴を舐め、もう誰からも咎められなくなったこの一人だけの密会にしがみつく。いくら認めないつもりでも、明日の新聞に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に死につづける。やさしい一人だけの密会を抱きしめて……」(傍線は原文傍点)

明日の新聞に先を越され」とは、上に述べた『飢えた皮膚』の最後に登場する「三日後れの新聞」と同じ論理であることがお判りでしょう。そうして、主人公は「明日という過去の中で」生きるが、その生きること、生き続けることが、「何度も確実に死につづける」ことだと言っているのです。

超越論にあっては、生きることは死ぬことなのです。三島由紀夫も同じです。

しかし、安部公房は現実と虚構の世界を峻別しました。そのかわりに、安部公房が自分の妹や弟や、また親族に書いた手紙は誠に情愛細やかで、世俗に生きる人間の愛情に満ちております。しかし、一旦藝術の世界に入りますと、世俗の人間から見れば、人非人と呼ばれるべき人間に、即ち藝術家に変貌します。しかし、これは同じ一人の人間の全体なのです。人間が二つに分裂しているわけではありません。

このような人間になる決心を、若き日の安部公房は、詩人から小説家になるに際して書いたエッセイ『牧神の笛』において論じ、その最後に(世俗の人間の目には)半獣半身の化け物である牧神(フォーン)に変身する覚悟、即ち人非人になる覚悟を、次の言葉を以って締めくくっております。

「 結局、ぼくのいきどおりも、その凍りはて裏がえったフォーンの快活さにたいしてであり、それは同時に、ほかでもないぼく自身の足どり、ぼくの血を吸おうと待ちかまえるぼく自身へのいきどおりにほかならなかったのではなかろうか。ぼくもまた、フォーンの笛を吹かねばならぬのだ。」(全集第2巻、202ページ下段。傍線原文傍点)

文中「ぼくの血を吸おうと待ちかまえるぼく自身」とあるように、安部公房は再帰的な人間であり、再帰的な人間であればこそ、このように「明日の新聞」の論理と其の論理の日常的な感覚への理解は誠に自明の如くに容易なのです。三島由紀夫についても同様に再帰的人間であることは言うまでもありません。

今思うままに思い出せば、三島由紀夫の場合には、例えば『鍵のかかる部屋』という小説がありますが、主人公が『誓約の酒場』または「誓約の酒場」へ行き帰るたびに、向こうから(前をではなく)後ろを向いて、外人が「歩いていたのである。それも前へ進んで歩くのではなく、ゆるゆると足をうしろへ運んで、後退しているのだ。」とあるように、この外人は主人公とは逆方向からやって来ることと、後ろへ後退する歩行を毎回主人公に向かって繰り返すことにより、主人公の時間と外人自身の時間を交換して、上に述べたように相殺をし、ここに時間は消滅するのです。

こうして、主人公の児玉一雄は、時間の存在しない『誓約の酒場』または「誓約の酒場」で、世俗の人間たちからは倒錯としか思われない話を同種同類の人間たちとすることができるのです。

この作品でも、三島由紀夫は記号を正しく使いわけて、『誓約の酒場』または「誓約の酒場」と書いており、前者は直接話法の会話の中で、後者は間接話法の地の文の中で描かれております。『午後の曳航』の中で首領が子分であるタグボートたちに言う「世界は単純な記号と決定で出来上がっている」という言葉は、ここでも正しいのです。前者は、1954年(昭和29年)の、後者は、1963年(昭和38年)の作品です。三島由紀夫が既に7歳の時に此の記号を定義していたことは、既に次の文章で詳細に論じましたので、ごらんください。

三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)(https://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html)

三島由紀夫の十代の詩を読み解く16:イカロス感覚2:記号と意識(6):「《 》」(二重山括弧)(https://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_21.html

三島由紀夫の十代の詩を読み解く17:イカロス感覚2:記号と意識(7):「『 』」(二重鍵括弧)(https://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_86.html


『誓約の酒場』または「誓約の酒場」が一体どのように異なるのかは、稿を改めて論じます。

また、『鍵のかかる部屋』にも顕著ですが、主人公やその他の登場人物の姓名が、上半分の姓だけの場合、下半分の名だけの場合、また上半分が漢字で、下半分がカタカナの場合と、作者は見事に使い分けております。『憂国』の主人公の名前は姓名としてfull nameで書かれているのに、何故親友たちは上の名前だけで呼ばれているのか、また何故『絹と明察』の主人公駒澤善次郎と其の敵対者の若者の婚約者である美しい娘だけがfull nameで呼ばれ、その他の人物は、話者である岡野を始めてみな、そう、聖戦哲学研究所の嘗ての所員も含めて、何故上の名前だけで下の名前がないのか、またはただ下の名前しかないのか、または場面に応じて、これらの混淆として名前が文字で書かれるのか、これらのことを論ずることが、そのまま三島由紀夫の作品の構造を知ることに通じています。つまり、このことを考察すれば、三島由紀夫の小説の作り方と其の様式化に関する考え方(論理)を知ることができることになります。

さて、超越論の話でした。

私たちは普段何気なく(これが「既にして」超越論です)超越論で物を考えて生きております。

上に挙げたような「いつの間にか」「どこからともなく」という言葉を使うと、あなたは「既にして」時間を捨象して、無時間の世界を想像している。これが言葉の力です。類似の言葉には、12歳の三島由紀夫が『硝子窓』という詩で使って作品を構造化した接続詞「すると」があります。それから、他には、「ほら」「既にして」「説明抜きに」「最初から」「そもそも」「いつの間にか」「知らぬ間に」「気がついたら」「不図」「理屈抜きに」「有無を言わさず」「余計な講釈抜きに」「四の五の言わずに」と、あなたが言いたくなった時には、間違いなく、あなたは超越論者なのです、ほら「既にして」「説明抜きに」「最初から」「そもそも」「いつの間にか」「知らぬ間に」「気がついたら」「不図」何気なく「理屈抜きに」「有無を言わさず」「余計な講釈抜きに」「四の五の言わずに」……


追記:

同じことを、道元禅師がおっしゃっております。以下もぐら通信第27号に掲載した梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨~従属文の中の安部公房論~』より引用してお伝えします。

しかし、これ(筆者註:言語機能論)は別に安部公房の独創ではありません。安部公房が自分の頭で物事と言語の本質を考えて、その結果10代でこの思想に至っていたということが独創的なことなのです。

安部公房が時間の空間化といったのと同じことを、道元禅師が『正法眼蔵』の最初に述べております。『正法眼蔵第一 現成公案』(げんじょうこうあん)に次の言葉があります。この道元禅師の言葉を読むと、言語機能論は、時代も人種も民族も個別言語も国も宗教もどの領域も何も問わないということが、お解りでしょう。

ここで論じているのは、時間と言葉と人間の思考による物事の機能化(函数化)ということ、単位化ということ、位ということです。道元禅師は禅のお坊さんですから、宇宙のこの法則の単位を、法位と呼んでいます。

「たき木はひ(火)となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰ははいの法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひ(灰)となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏といはぬなり。」

一次元の時間の中にいるわたしたちは、平凡普通に時が流れてゆくと思い、春は夏に、夏は秋に、秋は冬に、そして冬は春になり、移り変わってゆくと思っておりますが、道元禅師はそうではないとはっきり言うのです。

そうではない、春には春の位があり、夏には夏の位があり、秋には秋の位があり、冬には冬の位がある。即ち、春と夏の前後は際断せり、夏と秋の前後は際断せり、秋と冬の前後は際断せり、冬と春の前後は際断せり。時間の中の前後ではないという思想なのです。そして、これは宇宙の真理であるから、それを法位と言うのだと、そうおっしゃっております。灰と薪の関係も然り、従い、生と死の関係も然り。これは単位ですから、この位(単位)は互いに交換可能なのです。この考えで、安部公房は今日配達される「明日の新聞」を発行し、『第四間氷期』の電子計算機は未来を予言して、今日という現実としての事実を実現するのです。












2016年7月28日木曜日

安部公房と村上春樹:『方舟さくら丸』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

安部公房と村上春樹:『方舟さくら丸』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

備忘として次のように書いておきたい。以下『安部公房と寺山修司の関係を論ずるための素描(2):1980年代の方舟と箱舟』からの引用を:

1984年11月に、安部公房は『方舟さくら丸』を出版。

1984年9月8日に、寺山修司は、ドナルド・キーンさんに薦められて読み安部公房も高く評価したガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』を映画化した作品『さらば、箱舟』を発表。:https://www.youtube.com/watch?v=_XZodPr9UlA
(『安部公房と寺山修司の関係を論ずるための素描(2):1980年代の方舟と箱舟』参照:https://abekobosplace.blogspot.jp/2016/07/blog-post_18.html

そうして、1985年6月15日に、村上春樹は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』刊行。

同じ時期に、この3人が互いに通じ合う題名の作品をそれぞれ発表したことは興味ふかい。

ここでは、安部公房と村上春樹のそれぞれの小説の題名を比較してみよう。

『方舟さくら丸』は、地上は核戦争を前提にした(安部公房の語彙を使えば)ご破算の世界、そうして、地下に「さくら丸」という此の「さくら」という名前から判る通りに贋の船という二重の意味を掛けた方舟が石切り場という闇の中、夜の中に浮いている。

他方、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、その名前からいって、やはり「世界の終わり」というご破算の世界があり、「ハードボイルド・ワンダーランド」とは、安部公房の世界の「方舟さくら丸」ならば、それは主人公にとって不思議の国であり、「ワンダーランド」である。

違うのは、「ハードボイルドワンダーランドのハードボイルドというところだけが異なるが、村上春樹は、このハードボイルド」という形容にどのような意味を、小説の構成上付与したものか。

もっとも、安部公房の作品はみな、その文体はハードボイルドだと言えば、すべてハードボイルドである。

以下、Wikipediaによる定義:

「ハードボイルド(英語:hardboiled)は、感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情、精神的肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格を表す言葉である。
文芸用語としては、暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体をいい、アーネスト・ヘミングウェイの作風などを指す。また、ミステリの分野のうち、従来あった思索型の探偵に対して、行動的でハードボイルドな性格の探偵を登場させ、そういった探偵役の行動を描くことを主眼とした作風を表す用語として定着した。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/ハードボイルド#.E6.97.A5.E6.9C.AC

そして、Webster Onlineによれば、

この英語の定義によれば、

ハードボイルドとは、白身も黄身も固くなるまで、卵の殻の中で卵を料理すること

とあるので、その間、白身であれ黄身であれ、この二つの関係が敵にしろ味方にしろ、二項対立など無関係に、一切関係など顧慮せず、いづれにせよ、残酷なまでに徹底的に煮て、柔らかなものが固くなるま徹底的に、情け容赦なく、料理をする、料理をして美味いものを作ることが大事なのだ

という意味になるだろう。

安部公房の『方舟さくら丸』は、確かにそういう作品である。村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、如何なるらむ。









2016年7月21日木曜日

「読書メーター」あり、『カンガルー・ノート』の感想・レビュー(1126件)を

読書メーターなるサービスがネット上にあり、カンガルー・ノートの感想・レビュー(1126件)を伝えています。




再読。安部公房晩年の作品。かなりドラッギーでぶっとんだ作品。かいわれ大根が足に密生する奇病にかかった男が自走するベッドに導かれて様々な世界を旅する。〈死〉についてのモチーフというのもそうなのだが、〈生かされている〉という感覚を鋭く描いた作品だと感じる。カンガルーの袋と病院のベッド、交通組織。死の恐怖もしくは、死を恐れる自己に対する、言い様のない恐怖。胃がむかついてくるような作品。

ある日自分の足にかいわれ大根が生えてきたら。生きるということはすべてが伏線で、たとえこのような不条理であっても、すべての行い原因は死につながっているのではないでしょうか。「未練なんかあるものか。この風景の潤みは、涙なんかじゃない。休みなく顔面を打つしぶきにきまっている」。賽の河原での不思議な体験、そして生きることへの執念。生に対する体の反応。しかしすべては死に向かって突き進む。作者の思いなのだろうか。時代がまだ安部公房に追いついていないのかもしれない。

その他:


2016年7月20日水曜日

もぐら通信第47号(第二版)をお届けします


九堂夜想さんの句の転載に下記の誤植がありましたので、訂正して、お詫びをし、改めて此処に第二版をお届けします。


           記

誤 かまいたち死体は燿と立ちながら
正 かまいたち死木は燿と立ちながら

語 朽縄を吐き黙りの迷い神
正 朽ち縄を吐き黙りの迷い神

誤 命令鳥おんおんと石哭くものを

正 命命鳥おんおんと石哭くものを

もぐら通信第47号をお届けします

今月は早めにできてしまいましたので、早めにもぐら通信第47号をお届けします。


目次は次の通りです。

0 目次
1 ニュース&記録&掲示板
2 九堂夜想十句~鳥錆より~
3 俳句の世界の超越論~森久(流ひさし)氏の俳句について~
4 私の本棚より:巽孝之著『盗まれた廃墟 ポール・ド・マンのアメリカ』を読む                            
5 安部公房と寺山修司の関係を論ずるための素描(2):1980年代の方舟と箱舟 
6 リルケの『形象詩集』を読む(連載第13回):『守護天使』
7 言葉の眼 5:私たちは、何故TVを見なくなったのか?:9。幕の内弁当論と俳諧
8 ご寄附への御礼
9 連載物次回以降一覧 
(1)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(2)存在の中での師石川淳(1) 
(3)安部公房と成城高等学校(連載第5回):安部浅吉の論文
(4)存在とは何か~安部公房をより良く理解するために~(連載第5回):安部公房の汎神論的存在
   論
(5)リルケの『形象詩集』を読む(連載第14回):『殉教の女達』
(6)奉天の窓から日本の文化を眺める(6)
(7)言葉の眼6:秋竜山の孤島漫画
10 編集後記
11 次号予告

今月もまた、あなたの巣穴で安部公房との楽しいひと時をお過ごし下さい。


もぐら通信
発行人

岩田英哉

2016年7月18日月曜日

安部公房と寺山修司の関係を論ずるための素描(2):1980年代の方舟と箱舟

安部公房と寺山修司の関係を論ずるための素描(2):1980年代の方舟と箱舟

1970年代の安部公房スタジオの10年に相当する時代の時間は、サーカスとテントの時代と命名できるかも知れません。これは、後日安部公房文学サーカス論と題して論じます。

1980年代は、さてどうかといえば、これは、安部公房の作品『方舟さくら丸』の用字を用いて、「方舟」の時代と命名できるかも知れません。

この1970年代と1980年代を繋ぐのが、「イエスの方舟」です。

Wikipediaによれば:
1975年頃、会の名称を「イエスの方舟」と改めた。またこの頃から、家庭には居場所がないと感じていた信者が千石の活動に共感し、家庭を捨てて共同生活を始めるようになる。信者の多くは若い独身女性だったが、男性や既婚女性も含まれていた。その後、千石の体調が悪化したことと満足な布教活動ができなくなったことを理由に、1978年から千石は信者26人と共に全国を転々としはじめる。

1984年11月に、安部公房は『方舟さくら丸』を出版。

1984年9月8日に、寺山修司は、ドナルド・キーンさんに薦められて読み安部公房も高く評価したガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』を映画化した作品『さらば、箱舟』を発表。:https://www.youtube.com/watch?v=_XZodPr9UlA

西村幸祐著『幻の黄金時代 オンリーイエスタデイ’80  1980年代から透視する21世紀の日本』の前書が1970年代と1980年代の日本についての簡潔な叙述になっていますので、そこから後者を引用して、この時代を思い出すことにします。1980年代は確かにこのような時代でした。

「一九八〇年には自動車の生産台数と鉄鋼の生産高が米国を抜いて世界一となり、日本が〈ジパング〉として、西側陣営の経済、文化の中心となり、世界をリードするようになった。そして、活気に満ちていた日本から、絶えず新しい情報が世界中に発信されていたのである。それまで地球上の誰もが考えつかなかったようなウォークマンや CDという製品をソニーが世に送り出し、世界の家電業界やエレクトロニクス産業をリードする。日本人のデザイナーの斬新なファッションが話題を呼んで世界のモード界を席巻し、島田順子、山本耀司、川久保玲の三人が揃ってパリコレにデビューしたのも一九八一年だった。〈同時代文化〉の日本文化として世界に認知されていくのである。

(略)

八〇年代の東京では、いつからか平日でも夜の十一時過ぎにタクシーを拾うことが困難になり、週末になれば午前三時過ぎになってもタクシーが見つからないという状態が続いていた。明るく、そして猥雑で、透明感と開放感があった時代。躁状態で動き回り、片っぱしから仕事をこなし続けても、それでも、次々と新しい仕事が舞い込んで来る。そんなトランス状態の中で、未来がどこまでも開けていたと、誰もが錯覚した時代、それが八〇年代の日本だった。

〈ルンルン〉、〈バブル景気〉、〈お立ち台〉、〈ボディコン〉……、数え上げればきりがないほど、軽さと拡散志向の記号に囲まれたギラギラ輝く八〇年代に、じつは、ポッカリと大きな暗い穴が見えない場所に空いていた。それを見落としていた日本人は、平成を迎えてから〈黄金時代〉を一瞬の〈幻〉にしてしまう。絶頂期の日本の裏側に、現在の日本の危機を読み解く鍵が隠されていたのである。

 なぜ、日本人はそれに気づかなかったのだろうか。実際、その時代を生きた私もそうだったが、未来への確かな実感も、過去への追憶も、躁状態の中で思いつくことさえしなかった。つまり、歴史感覚が完全に失われていたのである。

 平成二十三年(2011)の東日本大震災を経て、私たちは日本の〈黄金時代〉を築き上げていた八〇年代の中から、日本の復興と再生、そして新しい日本を創生する手掛かりを、きっと、探し出せるはずだ。」

「イエスの方舟」は、「歴史感覚が完全に失われていた」という此の「ポッカリと大きな暗い穴」の一つを埋めようとした活動ではなかっただろうか。即ち、「平成二十三年(2011)の東日本大震災」を機に、私たち日本人が思い出した人間同士の絆、家族の絆、社会の絆、国としてある絆、このような絆と一言でいうあらゆる絆を求める運動です。

安部公房ならば、他者への通路といったでしょう。この通路は、安部公房の思考論理からいって、人間(person)同士の贋の絆ということになるでしょう。

それまでよく使われていた連帯(solidarity)という紐帯の名前は、思想的論理的なもので、それはヨーロッパの白人種に必要な絆のあり方の一つであったのでしょう。この、ひところ流行した言葉は、1970年代から1980年代のポーランドの自主的な(という意味は共産党の支配を受けないという意味の)労働管理組合に発した言葉です。:http://www.y-history.net/appendix/wh1702-020.html

2011年3月の東日本大震災からの10年は、絆の10年ということになるでしょう。

しかし、その間の、1990年からの10年間、2000年からの10年間は一体何という、どのような時代であったのか。一考を要しますが、時代を振り返って、反省することには意義も意味もあることでしょう。

最後に、話が戻りますが、ここまで書いてきて、漫画家梅津かずおに漂流教室という作品のあることを思い出しました。:https://ja.wikipedia.org/wiki/漂流教室

週刊少年サンデー1972年23号 - 1974年27号まで連載。1974年に刊行が始まった少年サンデーコミックスに初めて収録された作品である。楳図かずおの元々の持ち味である恐怖漫画のテイストがある。楳図はこの作品も含めた一連の作品で1975年に第20回小学館漫画賞を受賞している。

冒頭で、私は1970年代はサーカスとテントの時代と言いましたが、こうして考えて参りますと、確かに1970年代は、漂流の時代であり、仮住まいの時代であり、してみると、サーカスとテントは漂流という言葉を介して、1980年代の安部公房と寺山修司それぞれの方舟と箱舟に繋がっております。

以下安部公房文学サーカス論』で論じます。これは、こうしてみますと、『二十一世紀の安部公房論』という安部公房文学バロック論の一部を構成することになります。

追記:
寺山修司は、1969年(昭和44年)天井桟敷第9回公演として『時代は象に乗って』を初演している。1984年(昭和59年)にはパルコスペースパート3にて、再び演出。

遅くとも1969年から、更に1970年代を通じて、1980年代まで、寺山修司の中でも、サーカスとテントは生きていたのです。

象とは、もちろんサーカスの動物です。以下、寺山修司の詞に高取英が曲をつけた作品の歌詞を掲げます。小さいショットで申し訳ない。クリックすると大きくなります。







追記2:

もぐら通信第47号(2016年7月31日付発行)にて、更に詳細に記述を加えて論じました。ご興味のある方はお読みくださると嬉しい。






2016年7月16日土曜日

もぐら通信第46号(第三版)の発行と重ねての訂正箇所

もぐら通信第46号(第三版)の発行と重ねての訂正箇所

もう7月も半ばを過ぎたというのに、前月号の再々度の 訂正で、お騒がせします。


第46号の48ページの「第5回CAKE読書会報告:『無名詩集』のエッセイ「詩の運命」を読む」中、下記の項に65歳の安部公房の詩の引用がなされず、その次の「(4)カルティエ・ブレッソン作品によせて:全集第1巻414ページ」の項に引用した短文が重複していることに気づきましたので、遅蒔きながら下記の通り差し替えて訂正をし、お詫び致します。

あらためて、22歳の安部公房の詩『化石』と65歳の無題の詩が如何に変わらずに安部公房を表しているか、従い、詩人としての安部公房と其の詩を理解することが如何に大切かを知るために、どうかご覧ください。

今月号の第47号にてイギリス人David Mitchelがガーディアン紙に寄稿した安部公房論の内容をお伝えしますが、日本においてよりも、むしろ海外の英語圏においての方が、識者の間では、安部公房は詩人であるという確かな認識があるように思われます。


もぐら通信
発行人 岩田英哉


「(3)カルティエ・ブレッソン宛書簡:全集第28巻416ページ
このページにあるブレッソン宛に書いた、65歳の安部公房の詩を事前に読んで、準備をした。短いものですが、上の22歳の『化石』の詩に全く変わらずに通じている詩です。この詩に触れることはできなかった。

この最晩年の詩には、沈黙の中を永遠に飛翔する、やはり、鳥が出てきます。また、融合という(『化石』では)漢語で言われていた言葉が、溶け合うという大和言葉として出てきます。その他、存在と非存在などなどの言葉あり。以下に引用します。

「黒から湧き出る白 白に落ちていく黒
 たがいに溶け合うことなく 機略に富んだせめぎあい
 平面と立体のあいだの 存在しない次元に
 さしかかった一羽の鳥
 追憶に声を奪われた 沈黙の鳥」

                 [1988.2.16]」(傍線筆者)」


2016年7月14日木曜日

人生は夕方から楽しくなる、と題して、山口果林へのインタビュー記事がネット新聞に

人生は夕方から楽しくなる、と題して、山口果林へのインタビュー記事がネット新聞に掲載されています。


以下、同新聞より:

「語るほどに美しく、語るほどに若くなる不思議な人。5月で69歳になった。3で割った23と縁がある。素数の23が人生の節目となってきた。

(略)

安部氏が亡くなって23年が過ぎ、彼が死んだ年齢を超えた。生前と死後。同じ23年でも、時間の重みはやや違う。「やっぱり私が若かったのもあるのね。ともにいた23年は濃密で、今の時間の倍も生きたって思う」。死別後の23年は軽いのか。「うーん、そうでもないか。やっぱり濃かったかも。でも、本を書き上げてからが早かったなあ」

(略)

「私、(劇団)安部公房スタジオの看板女優だったのに、彼の死後、追悼パフォーマンスや研究会に一切呼んでもらえなかったんです。愛人だったことなんか関係なく、スタジオの主要メンバーだと認めてくれていたら、本を書かなかったと思うんです。そんなことで動揺する自分がいて、友人に『書かなければ、とらわれたままだよ。自分の人生を取り戻しなよ』と言われ……。書き上げたらスコーンと楽になって、全て過去のものになったって感じがして。それからは、あっという間に時間が過ぎちゃったって感じです」

(略)

次の23年で、隠された愛ゆえの深い葛藤と結びつきを表現する機会がありそうだ。本に書かれなかった、より具体的なエピソードも読みたい気もする。水を向けると、「細かいこと忘れちゃったよ。その部分は、もういいっすよ」。あんちゃん風の言い方で、顔をしかめてみせた。【藤原章生】」



2016年7月12日火曜日

巽孝之著『盗まれた廃墟 ポール・ド・マンのアメリカ』を読む

巽孝之著『盗まれた廃墟 ポール・ド・マンのアメリカ』を読む



巽先生の掲題の著書を拝読。思うところを思うままに、とは言へ此の博識に裏打ちされた本を全面的に論じることなどとても私にはできませんので、やはりこうなれば安部公房の力を拝借して、安部公房の世界から眺めたら、一体ド・マンの世界はどのように見えるかということを書いてみたいと思います。同書を読みながら、やはりあちこちに付箋がつき、感想や備忘の入るところが多々あるのです。

ド・マンはベルギー人ですから、ドイツとフランスに国境を隣接していますので、これらの国の言葉には堪能であったでしょう。出版業を営み、商業の世界にいたのであれば、尚更です。

1959年に、ドイツの詩人ヘルダーリンの『ライン河』という詩を論じています。ヘルダーリンという詩人は、三島由紀夫が十代より晩年まで愛読愛唱した詩人で、自然を歌っておりますが、それが単なる叙景でも叙情の詩でもなく、高度に象徴的な域に達した詩、即ち、自然の中にあり自然を構成する要素である海や河や川や果樹園や山や山巓や空や風や帆船や町や人間たち、男や女やらが、皆その名前を呼ばれると隠喩かと思われるほどの表現になっており、またいや、それは隠喩ではなく、やはり日常に見える対象であると思ってみても、そうなると此の日常の姿が全く普通の日常ではなく、実に豊かな何か、生命の横溢であることに気づくような、そのような詩になっております。

上で三島由紀夫の名前を出しましたのは、日本の作家としてヘルダーリンが好きだったということと加えて、その自刃の1週間前の古林尚のインタビューで、三島由紀夫自身が自分を浪漫主義者だと言い、どんなに人に笑われてもいい、十代の抒情詩人に「ハイムケール」(Heimkehr)するのだといっているからです。

ハイムケールとはドイツ語で、故郷(ハイム)に帰る(ケール)ことを言います。

浪漫主義とは、どのような考えであり感じ方かといえば、三島由紀夫の文学を見、ヘルダーリンの詩を見ますと、一言でいえば、ロマン主義とは、青春を歌うことです。それが過ぎた青春であれば、否青春は常に過ぎるわけですが、それを単に懐古するのではなく、常に現前するものとして歌うのです。ヘルダーリンの自然を象徴的に歌った詩の主題も青春であり、常に現前する現在の一瞬一瞬の河の流れである青春なのであり、豊饒の海へと注ぎ行って、この源泉の海へと回帰するのです。これは、三島由紀夫の好きだった同じヘルダーリンの『追憶』という詩の主題です。

巽先生が東京堂書店での対談の場にて配付された英文の引用集の5)によるド・マンの言葉によれば、これは既に、ドイツ語のUmkehr(回帰)の運動(movement)という言葉を用いて、以下のように再帰的な精神の繰り返しの運動を論じています。再帰的な人間、即ち自己が生成したテキスト以外のテキストからは引用しない人間は、ナルチスなのでありましょうか?

“Narcisse’s contemplation is precisely the contemplation of the self as a natural object and enjoyment of the spirit as if it were a material substance.”

この一行は全く回帰と再帰と差異に関する熟考から生まれた一行ですが、同時にまたas if以下の(英文法ならば)非現実話法で書かれた条件文が深い意味を持っています。

同じく配付された日本語によるド・マンの詳細な年譜によれば、1971年にド・マンは『真実の配達人』という批評文を書いています。この題名からして既に差異を求めて熟考した(comntempaltion)17世紀のバロック時代のヨーロッパの人間たちに最初から通じております。

何故ならば、安部公房の世界と同様に、配達するということは、典型的には郵便配達夫でありましょうが、しかしこの職業は当時ならば王侯の命令に基づいて、受取人に郵便物(音信)を配達する職業ですし、それがバロックならば、喪失した対象に郵便物を届ける職業でもあるからです。そうして、国境を越え、旅をし続け、さて求めた受取人は果たしてどこにいるのでしょうか?

『真実の配達人』という意味が真実を配達するという意味なのか、それとも、配達人が真実の、本来本当の配達人だという意味なのか、日本語からは解釈が二色ありますが、後者である場合には、贋物と本物という差異を問題にする安部公房の主題のひとつになるでしょう。求めて至ってみれば、そこもまた贋の世界(存在の世界)、非現実の世界だということになるのです。例えば、『燃えつきた地図』の探偵のように。

上に引用した5)の文章中には、ヘルダーリンの他に、再帰的な人間として、ランボー、ルソーの名前を挙げています。そして、この文章を読みますと、ド・マンの批判の対象は、当時の現代ヨーロッパであり、遡って近代のヨーロッパのものの考え方であることがわかります。次の文を引用してお伝えします。

”Hoelderlin himself is not the poet of this truly nationally Western art, but rather the poet of the Umkehr, of the movement by which the romantic sensibility turns away from its original ideal.”

”Hoelderlin himself is not the poet of this truly nationally Western art”というのは、ヘルダーリンは古代ギリシャという多神教の世界に憧れ、その世界を歌いましたので、この通りの詩人ですし、上に言及しましたように『追憶』という詩では、全く”the poet of the Umkehr,”であることも、その通りなのです。

このように考えて参りますと、ド・マンが、故郷ベルギーを「文書捏造、詐欺、横領によりド・マンに五年の禁固刑および罰金という」罪を逃れてアメリカに逃亡したのは、イヴリン・バリッシュの書いた伝記の題名が『ボール・ド・マンの二重生活』とあるように、全く二重の、または二重に、裏返しの関係を故郷に対して持ち、また文学、特に隠喩に対して持っているということになりましょう。象徴的な言葉で書かれた、隠喩が隠喩の域を超え、隠喩が隠喩ではもはやなくなるまで言葉を使うヘルダーリンを、この詩人の回帰という主題と相俟って、ド・マンが論ずる十分な理由があるのです。

上のヘルダーリンに関するド・マンの言葉で、そのようなオリジナルのものから、謂わば逃走し脱出する感受性を”the romantic sensibility”と呼んでいます。これが、本来は論理に徹して思考すれば差異をバロック様式の問題として論ずることになるものを、そうではなく、差異をロマン主義的に、即ち一言でいえば、ロマン主義とは、青春を歌うことですので、それが過ぎた青春であれば、否青春は常に過ぎるわけですが、それを単に懐古するのではなく、常に現前するものとして歌うことを、ド・マンは愛し、そして其の愛を批評し批判するのでしょう。

そうして、叙情ではとても論理に裏打ちされた批評にはなりませんので、そこでdeconstruction(脱構築)という、ジャック・デリダの差異化と統合化の論理に魅せられたのではないでしょうか。

今、デリダを含め、私が同じ傾向の思想家たちの名前を挙げると次のような人たちがいます。

1。フランス
(1)ジル・ドゥルーズ(1925年1月18日~1995年11月4日):https://ja.wikipedia.org/wiki/ジル・ドゥルーズ
(2)ジャック・デリダ(1930年7月15日~2004年10月8日):https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック・デリダ

2。ドイツ
(1)ハラルド・ヴァインリッヒ(1927年9月24日~ )

3。アメリカ
(1)ド・マン(1919年12月6日~1983年12月21日)
(2)バーバラ・ジョンソン
(3)Yale学派の其の他の高名なお弟子さんたち

3。日本
日本のバロックの作家安部公房の名前を挙げることにしましょう。
安部公房(1924年(大正13年)3月7日~1993年(平成5年)1月22日): https://ja.wikipedia.org/wiki/安部公房

このようにしてみますと、ド・マンのお弟子さんたちは別にして、これらの人間たちは同じ時代、同じ年代、同じ時間を共有していたことが判ります。

ジル・ドゥルーズは『襞』と題した本を書いていて、こうなると全く安部公房です。ただしこの哲学者は微分のみに関心があり、安部公房のように積分を考えて言語を論じた哲学者ではありません。おそらく、そこには対象を細分し、差異を区分して求めてゆくことに意義のある、当時のフランスとヨーロッパの事情があったのではないかと想像します。或いは、単なる想像ですが、この考え方は、現実的な働き方としては、(今既に崩壊しつつある)EUの当時の統合の動きに抗うことをしたのかも知れません。

ハラルド・ヴァインリッヒという名前は日本では全く知られておりませんが(何しろドイツも敗戦国ですから、フランスの哲学者ばかりが日本に入ってくる)、ヨーロッパでは高名な哲学者です。

この哲学者は差異をやはり言語に求め(それは正しい、何故なら言葉の意味とは差異だから)、それを話法(mode)の問題として論じています。話法もまた差異とそれを接続する文法でありますから、例えば上の”as if it were a material substance”のように、現実と非現実を接続する、即ち変形の文法ですので、幾つもの魅力的な題名を持つ著書名を見ますと、これを専らにして論じていることがわかります。

巽先生の此の著作を論じ始めますと、これは恐ろしく広汎に論を張らねばならず、確かにたくさんの付箋をつけたのですが、しかし、それはとても論じ尽くすことがかないませんので、戦線を縮小することにいたします。

私の興味をひいたのは、デリダが父親の喪失との関係で、この差異と再帰性を考えたのではないかと思われるように[註1]、ド・マンもまた、父親との関係で何か問題を抱えていたのではないかということです。こんな通俗的な言い方は私の本意ではありませんが、父親に対して何か心理的なコンプレックスがあったのではないだろうかということです。

[註1]
デリダの『Pharmakon』(『Dissemination』所収)の 「2. The Father of Logos」と題した章に次の父親が出てきます。(『Derrida Dissemination』continuum社、London・New York)

”The pharmakon is here presented to the father and is by him rejected, belittled, abandoned, disparaged. The father is always suspicious and watchful toward writing.(略)

Not that logos is the father, either. but the origin of logos is its father. One could say anachronously that the “speaking subject” is the father of his speech. And one would quickly realize that this is not metaphor, at least not in the sense of any common, conventional effect of rhetoric. Logos is a son, then, a son that would be destroyed in his very presence without the present attendance of his father. His father who answers. His father who speaks for him and answers for him. Without his father, he would be nothing but, in fact, writing. At least that is what is said by the one who says: it is the father’s thesis. The specificity of writing would thus be intimately bound to the absence of the father. Such an absence can of course exist along very diverse modalities, distinctly or confusedly, successively or simultaneously: to have lost one’s father, through natural or violent death, through random violence or patricide; and then to solicit the aid and attendance, possible or impossible, of the paternal presence, to solicit it directly or to claim to be getting along without it, etc. The reader will have noted Socrates’ insistence on the misery, whether pitiful or arrogant, of a logos committed to writing:”……It always needs its father to attend to it, being quite unable to defend itself or attend to its own need” (275e).

 This misery is ambiguous: it  is the distress of the orphan, of course, who needs not only an attending presence but also a presence that will attend to its need; but in pitying the orphan, one also makes an accusation against him, along with writing, for claiming to do away with the father, for achieving emancipation with complacent self-sufficiency.(略)”



デリダも確か父親を子供の時に亡くしております。他方、配付された年譜によれば、ド・マンの場合には1949年30歳になっても、ベルギーでの裁判所に父親が出頭しております。

しかし、奇妙なことは、この年譜にもその後の父親の死のことが、普通ならば書かれるべきものを、その記載がありませんので、どうも父親の影が、犯罪を犯したことに関する以外には、誠に薄いということです。それが、何かの宴席で、ベルギーの伯父の話に談たまたま及んだときに、それは自分の「実の父親」だと言った(同書103ページ)原因なのではないでしょうか。隠喩を詳細に論じた人間が、これを隠喩として発話したのでしょうか。どうも私にはそうは思われず、もう少し微妙な事情が伏在しているように見えます。

それは、defacementという言葉との関係で巽先生が会場でおっしゃったド・マンの言葉”revolving door of reading”に現れているように、そうしてご著書の95~96ページに描かれているように、revolving, revolution、それからrestorationという一連の語義と連想から言っても、このド・マンという人の語彙の選択には、何かこの人の叙情は再帰的な(脱走、遁走と裏腹の)回帰を思うと、政治的な関心に向かうという傾向があるのではないでしょうか。そのように思います。

最後に何故、アメリカ人が、それもベルギー人のド・マンがデリダを受け入れ、この外国人を介して、受け入れたかという理由を考えますと、私が既に『安部公房のアメリカ論』(もぐら通信第22号)で論じたように、アメリカは親のいない孤児の文化だからではないでしょうか。デリダが実際にそうであり、またしかしそうでなくとも、差異を連続的に求めるという着眼の論理は、これはバロックの世界の論理なのですが、この世界は(アメリカという国と同様に)座標のない世界を前提にしておりますので、文法で言えば、述語だけを重ねたような、そうして主語も複数にわたって幾らでも置くことのできる、そのような話法(mode)の問題でありますから[註1]、哲学と其の歴史を欠いたアメリカ人にとっては、誠に魅力的であったし、納得の行く論ではなかったのでしょうか。勿論、今でも魅力的でありましょう。何しろ私の上の論によれば、アメリカは贋の国、コーラやジーンズやハンバーガーやらの贋の文物の溢れる国なのですから。勿論本物とは、アメリカにとっては、歴史的な連続性の絆を切った筈のヨーロッパの文化であり文明です。詳細は『安部公房のアメリカ論』をお読みくださると嬉しい。

スーパーマンもまた両親を失った孤児であり、アメリカの男性と国柄の形象でありますが、「隠れ脱構築批評家(クリプト-デコンストラクショニスト)」(crypto-deconstructionst)というスティーブン・バリッシュが「自身の仕事を振り返って」自分自身を呼んだという箇所(同書18ページ)を読んだ瞬間に、スーパーマンの故郷の星の名前がKryptonであったことを思い出しました。ヨーロッパ人ならば、cryptoとは言わず、incognitoというところです。日本ならば、水戸黄門や遠山の金さんとか、落語ならば横丁のご隠居というところでしょうか。これ、逸脱もまた差異の然らしむるところ。

最後に、ド・マンが1959年にヘルダーリンの『ライン河』を論じたことから、私が即座に連想したのは、この人は海の好きな人ではないのだろうかということでした。

調べますと、ベルギーのアントワープは海に勿論面しております。この首都の市場(マルクト)は海からほんのすこし外れておりますが、ド・マンはどこに住んでいたものか。

また、アメリカに移住した後に教鞭を執った大学もまた、バード大学、コーネル大学、チューリッヒ大学、イエール大学とみな、海に面し、あるいは湖と河に面しております。

これが偶然でないならば、ド・マンは運の良い男だということになりましょう。例え故郷故国では犯罪者であり、また事実として重婚者であったにせよ。

このような罪ある人間を大学の教授にまでして受け容れるアメリカという国もまた、懐の深い国だと思いました。日本では有り得ないことでありましょう。

追記:
もぐら通信第47号(2016年7月31日付発行)にて、更に詳細に記述を加えて論じました。ご興味のある方はお読みくださると嬉しい。



















2016年7月7日木曜日

二つ目のもぐら通信社の法人銀行口座が開設されましたので、お伝えします

二つ目のもぐら通信社の法人銀行口座が開設されましたので、お伝えします。

銀行名:住信SBIネット銀行
店番:106
支店名:法人第一支店
口座の種類:普通口座
口座番号:1203405
口座名義:もぐら通信社一般社団法人

一つ目の口座については、既報ですが、改めて併せてお伝えします。

銀行名:三菱東京UFJ銀行
店番:591
支店名:多摩センター支店
口座の種類:普通口座
口座番号:0500519
口座名義:もぐら通信社一般社団法人

寄付金等は総て、当社の定款にある以下の目的のために有益に使われます。

「(目的)
第 3 条  当法人は、安部公房の文学を顕彰することを目的とし、その目的に資するために、次の事業を行う。

 1 もぐら通信の発行
 2 もぐら文学賞の創設
 3 読書会の開催
 4 講演会の開催
 5 安部公房文学館の設立
 6 世界中の安部公房の読者のための交流機会の創出
 7 前各号に掲げる事業に附帯又は関連する事業」