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2015年12月28日月曜日

安部公房と三島由紀夫の出会いと別れ  ~安部公房、石川淳、三島由紀夫~

安部公房と三島由紀夫の出会いと別れ
    ~安部公房、石川淳、三島由紀夫~



安部公房は三島由紀夫にいつ最初に会ったのでしょうか。

もぐら通信第39号(2015/11/30発行)に中田耕治さんは、次のように書いていらっしゃいます。

「2015/11/23(Mon)  1646
 
                  【42】

 ある日、「近代文学」の集まりがあった。
 この集まり(勉強会)で、安部公房と私は、ある新人作家について、それぞれが批評することになった。対象は三島由紀夫だった。
 場所はよく覚えていないのだが、おそらく中野の「モナミ」だったと思う。
 このレクチュアは、(あとで思い当たったのだが)「近代文学」の第二次同人拡大が問題になる前で、安部君は別として、中田耕治を同人にするかどうか、いわば面接試験めいたものだったのではなかったか。
 ゲストは三島由紀夫。「近代文学」側は、平野謙、小田切秀雄が欠席。ほかの出席者に、中村真一郎、椎名麟三、野間宏など。花田清輝はいなかった。

 最初に私が、短編集の「夜の仕度」について報告した。
 つづいて、安部公房が「仮面の告白」を批評した。
 (私の知るかぎりでは、その後の「世紀」で、安部公房が三島由紀夫をテーマにレクチュアしたことはない。「世紀」でもこうした勉強会をはじめたけれど。)
(略)

 このときの安部君の批評はじつにみごとなものだった。私は、安部君は、小説よりも批評を書いたほうがいいのではないか、と思ったほどだった。
 三島由紀夫も安部君の批評に感心したようだった。

 安部君の批評に注目した人がいる。中村真一郎だった。

 この集まりが終ったあと、中村真一郎が、安部君と私を呼びとめて、コーヒーをおごってくれた。このときの話題は、もっぱら安部君の批評に対する称賛だった。真一郎さんも三島由紀夫の作品にふれたが、むしろ安部君の批評について批評したのだった。批評家が他人の批評を批評するときほど批評家であることはない。
 真一郎さんは、まだ作家としての安部公房を知らなかったはずで、まず卓抜な批評家としての安部公房に驚嘆したようだった。
 このときの話はもっぱら安部公房の批評と、三島由紀夫の短編にかぎられたが、中村真一郎は、私に向かって、
 「きみ、フランス語、勉強してる?」
 といった。」

『近代文学』復刻版解説(昭和56年3月。日本近代文学館)によれば、近代文学の同人拡大については、第二次同人拡大は1947年7月号から、第三次同人拡大は、1948年6月末からとなっています。

1949年1月号からは、第三次同人拡大で、三島由紀夫が参加しました。

三島由紀夫の『仮面の告白』の出版は、1949年(昭和24年)7月5日に初の書き下ろしとして河出書房より刊行されております。(Wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/仮面の告白

としますと、冒頭の中田耕治さんの回想する近代文学の読書会の開催日は、西暦1949年(昭和24年)7月5日以降ということになります。この時三島由紀夫は、近代文学の同人として、安部公房の『仮面の告白』の批評の言葉を直かに聞いたわけです。

さて、中田耕治さんの、『贋月報』(安部公房全集第2巻)によれば、安部公房と三島由紀夫の最初の出会いは、次のようなものでした。

安部公房と中田耕治さんは、次のように考えて、「世紀の会」という文学の会を立ち上げます。

「毎日つながって歩いていて、取りあえず何かしないとね、うだつが上がらないから、じゃあ何かやろうか、っていうんで僕らは、二十代の作家を集めて「二十代文学者の会」を作ろうということになりました。誰か誘おうと、安部さんと考えました。どんどん入れようと思って三島由紀夫も誘いました。三島は既に名声がありましたが、偉い人たちと一緒にやることがいやなのね。僕らの所に来ました。三島は26番、1番は安部で2番は僕。いろんなメンバーがいて、五味康祐なんかもいました。名簿が僕がガリ版で作って回覧しました。二人で名前を考えました。僕はドストエフスキーの雑誌から取って来て「世紀の会」と名前を付けたんだ。埴谷雄高さんのところに報告に行きました。埴谷さんは(ロシア語で)「エポハ(世紀)だね」と言いました。

 (略)

安部さんと三島さんが出会った時を覚えています。三島由紀夫の創作集を取り上げて、安部と僕でそれぞれ一冊ずつ書評を発表して討論する集まりがありました。武田泰淳、埴谷がいて。本多秋五が「安部公房は頭いいね」と言ったのを覚えています。この時三島さんが出席していました。神田の昭森社の関係でラドリオかランボーだったと思います。僕は『夜の仕度』を取り上げました。安部さんが何をやったか覚えていませんが、全否定していました。「こういう小説は、可能性がない」というようなことを言っていたと思います。三島さんも安部はすごい奴だと思ったみたいでした。それから二ヶ月ぐらい後だったか、本郷のバーで、安部さんと、三島、花田清輝、加藤周一が大論争していたのを覚えています。そのころから安部さんの議論の展開は非常にポエティックだった。1949年頃のことでした。」

この回想にある、安部公房が中田耕治さんと最初に立ち上げた世紀の会創設の年月日は、以下に引用する、鳥羽耕史氏が有難くも実に精細にまとめた「〈夜の会〉〈世紀の会〉〈綜合文化協会〉活動年表」によれば、1947年春といふことになります。何故ならば、そこに、中田耕治の名があるからです。

そして、ここに三島由紀夫も入ってゐる。三島由紀夫は、贋月報の中田耕治談によれば26番目。





といふことは、安部公房と三島由紀夫の最初に出会つたのは、1947年の春以降の季節の中で、それも「世紀の会」の読書会の席上で、且つ『仮面の告白』の刊行された同年7月以前といふ事になります。

以上のことから考えると、二人の出会った時期は、

(1)三島由紀夫の創作集を取り上げたこと、それから
(2)その創作集の中には、『夜の仕度』が入っていること

この二つの条件の重なる時期を求めることになります。

エッセイ『「夜の仕度」から「仮面の告白」へ』によれば(http://fulltimelife.net/yorukame.html)、「「夜の仕度」は、昭和22年8月「人間」に発表、23年12月、短編集「夜の仕度」鎌倉文庫刊。 」とあるので、昭和22年は西暦1947年でありますから、「三島由紀夫の創作集」は、1948年12月の鎌倉文庫刊の短編集「夜の仕度」いうことになります。

二人の出会いは、世紀の会の設立された1947年の春以降の時間の中で、短編集「夜の仕度」が鎌倉文庫刊より刊行された1948年12月以降の「世紀の会」の書評発表の席上で、といふ事になる。

さうして、『仮面の告白』を、安部公房が批評した近代文学の読書会の開催に、三島由紀夫が来たのは、1949年の1月号からの第三次同人拡大の時の後の読書会であり、これは、読書会という事では、第2回目の、読書会での、二人の出会いという事になります。

ということは、中田耕治さんのいう「世紀の会」の二人による書評の会は、1948年12月以降、近代文学の第三次同人拡大が1949年1月号発表時からといふことであれば、当月号は前月に発表の内容は決まるでありましょうから、安部公房と中田耕治さんの「世紀の会」の書評の会の開催は、1948年12月、即ち1948年12月の鎌倉文庫の短編集『夜の支度』刊行直後といふ事になります。

1948年(昭和23年)12月、これが二人の最初の出会いの時であり、最初の出会いの場所は、中田耕治さんの言によれば、東京神田の昭林社の隣のラドリオかランボーです。

「神保町へ行こう」によれば(http://go-jimbou.info/shoku/cafe/cafe002_radorio.html)ラドリオは、昭和24年の創業ですから、創業は西暦1949年。従い、1948年(昭和23年)12月に二人が出会ったのはラドリオではなく、ランボーといふことになります。

二人は、西暦1948年、昭和23年の12月に東京神田の喫茶店ランボーで初めて会ったのです。

安部公房24歳、三島由紀夫23歳。

これで、二人がいつ何処で出会ったのか、その歴史的事実が明らかになりました。これは、おそらくは、三島由紀夫の世界の読者も知らなかったことではないでしょうか。

少し眺めを、日本から離れてヨーロッパに向けてみますと、1948年(昭和23年)という年は、ベルリン封鎖の年であり、即ちベルリンが東西に引き裂かれた年です。そうして、この政治的激動の年の10月に、安部公房は「世田谷区北沢の石川淳宅を単身訪問、面識を得」ております。(安部公房全集第30巻、633ページ)

安部公房は、『終りし道の標べに』を1948年(昭和23年)10月に真善美社より出版しております。安部公房の此の文壇的登場の処女作の単行本としての刊行が10月、石川淳を単身訪ねたのが同じ10月ということであれば、この事実の時間的前後はわかりませんが、やはり此の時、石川淳[註1]とは存在の中で一生の師弟の礼をとった安部公房の心中には、この石川淳宅訪問には、何か期するものがあったのではないでしょうか。

石川淳は、安部公房と最初にで会った時のことを次のように、安部公房に話しています。

「安部 石川さんに初めてお会いしたのは、確か品川のお宅でしたね。 
 石川 品川じゃない、下北沢だ。品川の前だよ。つまりきみの『終りし道の標べに』が出た時だ。このあいだ、きみの芝居「友達」のプログラムにも、そのことは書いたけど。
 安部 「人間」にいた河辺君といっしょにうかがったんじゃなかったですかね。
 石川 違う。きみは一人できたよ。それははっきり覚えている。下北沢の家で、いちおう西洋ふうのうちで、だから玄関を入ってくるとちょっと階段あがって、ドアがあって、そこでドアのベルが鳴ったからぼくが出て行って、あけたらそこに知らない人がいた。それが安部君だったんだ。」(全集第21巻、7ページ)

[註1]
石川淳:
1935年(昭和10年)の『佳人』発表から創作活動を再開。1937年、『普賢』で第4回芥川賞を受賞。その直後、1938年の『文学界』1月号に発表した「マルスの歌」が反軍国調だとして発禁処分を受け、編集責任者河上徹太郎とともに罰金刑に処せられたこともあって、戦時中は創作に制約を受け、森鴎外における史伝の意味を明らかにした『森鴎外』などの評論や、江戸文学の研究に没頭する。1945年5月25日、空爆により被災、千葉県船橋市に転居(のち1947年、世田谷区北沢一丁目に、1948年、世田谷区北沢二丁目に、1949年、港区芝高輪南町に、1953年、杉並区清水町に、1963年、渋谷区代々木上原に、1964年、渋谷区初台に、転居)。厚生省の外郭団体に勤務し同和地区視察のために夏から秋にかけて北陸、近畿、四国を旅行。(https://ja.wikipedia.org/wiki/石川淳)



安部公房のWikipediaによれば、「同じく1947年に、安部は「粘土塀」と題した処女長編を、成城高校時代のドイツ語担当教員・阿部六郎の許に持ち込んだ。この長編は、一切の故郷を拒否する放浪の後に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、三冊のノートの形式を取った物語であった。「粘土塀」の内容に深い感銘を受けた阿部は、この作品を文芸誌『近代文学』の創刊者の一人である埴谷雄高に送り、「粘土塀」の内の「第一のノート」が翌年2月の『個性』に掲載された。」とあります。

とすると、『粘土塀』の「第一のノート」は、1948年2月に『個性』に掲載された。更に単行本になつたのは、1948年10月、即ち昭和23年10月に真善美社より発行ということになります。(「ほら貝」:http://www.horagai.com/www/abe/contemp1.htm)。

「存在感覚の変換 ーアヴァンギャルドの道」と題した、埴谷雄高の、安部公房への追悼文から関係する箇所を引用します(もぐら通信第35号):

「ところで、平野謙ばかりでなく持ちこんだ「個性」でもその掲載は難行したのであった。あまり長く置かれているので、最後は、編集長の片山修三と私との長い論争になったのである。片山修三は哲学好きで、また、たいへんなお喋りであって、要は、この作品は思いつきにすぎない、というのであるが、何をいっているんだ、ひとの気づかぬ思いつきがどれほど深まるか、が文学の問題だと主張する私とのあいだで一時間以上も大議論した果て、ようやく片山修三は掲載を受けいれたが、作者の経済状況を知らぬまま、原稿料があった方がいいという思いもあって、商業誌の「個性」へ押しこんだ私はやっと安心したのである。」

そうして、三島由紀夫研究者西法太郎氏のご教示によれば、この時、1948年2月に『個性』に掲載された『終りし道の標べに』の「第一のノート」を読んで、三島由紀夫は、次のような賛辞を、安部公房に惜しみませんでした。:

「決定版三島由紀夫全集27所収の「文芸時評」という短文に以下の記述があります。

「安部公房氏の「終りし道の標べに」(個性)には主体と方法の力いっぱいの対決が見られる。」
「安部氏の作品は「秘密」というロマネスクの契機が却ってロマンを喪失させる形になったが、その青年らしい形而上学的情熱は、近ごろ流行の新文学のフランス的軽薄(フランス文学は軽薄ではない筈だが)とちがって熱っぽく快い。」-廿三・二・一五ー   <初出>時事新報・昭和23年2月17、18日

(略)

この短文では数作品を取りあげていてその中で他と比較しながら「終りし道の標べに」に触れています。」

この批評を書いた三島由紀夫は、上記の中田耕治さんの言葉にあるように、「世紀の会」という文学の会を立ち上げた時は「既に名声がありました」。

三島由紀夫は、この年、即ち「世紀の会」の読書会に出席した時には、以下の作品を出しており、確かに既に名声の確立した作家となっております。

短編小説:
サーカス(進路 1948年1月)
婦徳(令女界 1948年1月)
接吻(マドモアゼル 1948年1月)
伝説(マドモアゼル 1948年1月)
白鳥(マドモアゼル 1948年1月)
哲学(マドモアゼル 1948年1月)
蝶々(花 1948年2月) - 改題前は「晴れた日に」
殉教(丹頂 1948年4月)
親切な男(新世間 1948年4月)
家族合せ(文學季刊 1948年4月)
人間喜劇(1948年4月) - 1974年10月刊行の全集2巻に初収録。
頭文字(文學界 1948年6月)
慈善(改造 1948年6月)

長編小説
盗賊(1947年12月 - 1948年11月)
第1章(午前 1948年2月)
第2章(文學会議 1947年12月)
第3章(思潮 1948年3月)
第4章(文學会議 1948年10月)
第5章(新文學 1948年2月)
第6章(書き下ろし/真光社 1948年11月)

戯曲・歌舞伎
あやめ(婦人文庫 1948年5月)
火宅(人間 1948年11月)

随想・自伝・エッセイ・日誌・紀行
重症者の兇器(人間 1948年3月)
師弟(青年 1948年4月)
ツタンカーメンの結婚(財政 1948年5月)
反時代的な芸術家(玄想 1948年9月)

文芸評論・作家論・芸術論・劇評
相聞歌の源流(日本短歌 1948年1月・2月)
情死について――やゝ矯激な議論(婦人文庫 1948年10月)

対談・座談・討論
小説の表現について(序曲 1948年12月)
対:埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、寺田透、椎名麟三。実施:10月6日


最初に安部公房が三島由紀夫とで会った「世紀の会」の席上に、武田泰淳がおります。

再度、この時、安部公房24歳、三島由紀夫23歳。石川淳49歳。そして、武田泰淳36歳。

ジョン・ネイスン著『ある評伝 三島由紀夫』によれば、1970年、「六月に入ってからの三島はまた、それとなく人々に別れを告げはじめている。」三島由紀夫は「六月だけでも、三島は六人ばかりの作家や批評家たちと最後の夜を過ごしている。その中には、三島が最も尊敬していた石川淳、武田泰淳、安部公房の三人(いずれも三島が楯の会を結成したとき、これからは政治の話はよそうと申し合わせた文学者たちである)もいた。」と、あります。(同書235ぺージ上段)

1948年12月、三島由紀夫が初めて「世紀の会」の席上出会った安部公房に、そうして同席した武田泰淳に、1970年6月に、こうして最後のお別れの挨拶をしたのです。三島由紀夫は、安部公房が存在の中で師弟の礼をとった石川淳には、その後再度同じ年の秋に、1970年11月25日の死の前に、対談をしております。

この対談で三島由紀夫の語った言葉を読みますと、それは、1967年5月1日に、当時の毛沢東率いる支那共産党の文化大革命という建前のもとで行った毛沢東のための権力闘争という政治目的の手段、即ち文化破壊の暴挙暴力に反対して、石川淳、川端康成、三島由紀夫、安部公房の4人の連名で出した『文化大革命に関する声明』(全集第21巻、15ページ)と、引き続いての4人での座談会「われわれはなぜ声明を出したか---藝術は政治の道具か?」(全集第21巻、15ページ)で、三島由紀夫が石川淳と語りあい、議論をした其の主題であるのです。

こうしてまた、

三島由紀夫ー蓮田善明ー阿部六郎ー安部公房

という旧制高校の時代の師弟の繋がりの他に、

安部公房ー石川淳ー三島由紀夫

という、石川淳を介して、文藝の世界での直接的な精神の繋がりが二人の間にはあることを、私たちは知ることになりました。

更にもうひとつの、三つ目の安部公房と三島由紀夫の繋がりがあります。これは、「世紀の会」で二人が出会う前の、前段の、詩人の世界での二人の繋がりです。

十代の三島由紀夫は、詩作を伊東静雄[註2]という、やはり日本の詩の歴史に名を残す詩人に師事します。この、萩原朔太郎に賞賛されて世に出た詩人の、長崎の大村中学校以来、そして京都帝国大学時代以来の親しい詩人のひとりに蒲池歓一(かまちかんいち)といふ詩人がおります。もぐら通信第25号に『更科源蔵と安部公房~『どれい狩り』、『ウェー』の旅~』で、安部公房と一緒に写っている写真を示してお伝えした蒲池歓一[註3]です。

こうして今、三島由紀夫の世界から安部公房の世界を眺めて初めて、この人物が何者であるのかが明らかになりました。後年國學院大学の教授職を務めております。更科源蔵宛の手紙にある通り、29歳の安部公房は、蒲池歓一を直接その家に訪ね、話をしております。[註4]この写真の向かって左、しゃがんで帽子を左手にして、何か細い枝のようなものを持ち帽子をかぶった更科源蔵[註4]の左にいるのが、この詩人です。




1955年までは、安部公房は顕著に詩人たちとの交流を図っております。1950年にエッセイ『牧神の笛』を書いて其の後、詩人から小説家に変貌するために、それも詩人のままに、詩と小説という相異なる範疇の藝術を一つに統合して、そのような第三の客観又は第三の道を求めて、言わば第三の小説家に変貌するために、苦心苦労をしている時期に当たります。[註5]

[註2]
伊東静雄:
京大在学中には、文学部教授に旧制大村中学の先輩である朝永三十郎(1965年ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の父親)が、旧制住吉中学当時の教え子には、第三の新人の一人である小説家の庄野潤三や2008年ノーベル化学賞を受賞した下村脩がいた[1]。旧制大村中学の先輩に文芸評論家の福田清人(ふくだ きよと)、同学年に早稲田大学文学部教授となった近代文学専攻の国文学者川副国基(かわぞえ くにもと)、國學院大學文学部教授となった古典中国文学者の蒲池歓一(かまち かんいち)がいる。(https://ja.wikipedia.org/wiki/伊東静雄


[註3]
(1)デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説:
蒲池歓一 かまち-かんいち

1905-1967 昭和時代の詩人,中国文学者。
明治38年7月20日生まれ。昭和7年同人誌「小説文学」を創刊,主宰。戦後,文筆生活にはいり,更科(さらしな)源蔵,真壁仁らの「至上律」に参加。また中国文学を研究し,「漢詩大系―高青邱」がある。国学院大,日大などの講師もつとめた。昭和42年9月25日死去。62歳。長崎県出身。国学院大卒。筆名は蒔田廉。(https://kotobank.jp/word/蒲池歓一-1067009

(2)はてなキーワード:
蒲池歓一
かまちかんいち

(1905年7月28日-1967年9月25日)詩人、中国文学者。
長崎県諫早市生まれ。筆名・蒔田廉。1929年國學院大學高等師範部卒、中文館書店編集部勤務、福田清人と同人誌『明暗』、39年八弘書店設立。戦後、奥州大学教授。

著書

『石のいのち 詩集』森北出版,1953
『伊藤整 文学と生活の断面』東京ライフ社,東京選書 1955
『中国現代詩人』元々社,民族教養新書 1956
翻訳

『呪はれたるフランス フランスを裏切れる十五貴族」アンドレ・シモーヌ 蒔田廉訳 八弘書店, 1941
『三国志物語」羅貫中原作 集英社,少年少女物語文庫 1959
『漢詩大系 第21 高青邱」集英社,1966


[註4]
『更科源蔵と安部公房~『どれい狩り』『ウェー』の旅~』(もぐら通信第25号)より引用します。:

「更科源蔵は、北海道は道東の熊牛原野に生まれ育った詩人です。1904年生まれで、安部公房と丁度20歳年長の詩人です。

安部公房が更科源蔵に宛てた1953年5月9日付書簡があります(全集第29巻、338ページ)。このとき、安部公房、29歳。

「おいそがしいところ、わざわざ御連絡ありがとうございました。もっと早く返信いたすべきと思いながら、多忙のため、つい出しそびれ、失礼申し上げました。一昨日蒲池さんのところにうかがい、いろいろおはなしうかがいました。北海道伝説集、面白そうですね。代金お送りしますから、送っていただけませんでしょうか。ぜひ読ましていただきたいと思います。――なお、勝手な希望なのですが、今度の北海道ゆき、私としてもめったにない機会なので、たいへんうれしいのですが、なお、次の点について、お知らせ下さいませんでしょうか。

1 出発、もし可能なら、5日でも10日でものばしていただきたいのですが……絶対不可能なら、6月1日に都合をつけるようド力します。現在、私、例外的に多忙なものですから……
2 途中のスケジュール、行ってから私たちの希望で、1日2日変更したりする自由はあるのでしょうか?私は人里はなれた平凡なところに行ってみたいのですが……

 なお末筆ながら、いつも弟がひどくお世話になり、これまでお礼も申し上げなかった失礼、どうぞお許し下さい。」

安部公房がこの手紙を書いた時、更科源蔵の年譜を見ると、1950年(昭和25年)、46歳のときに北海道図書館及びNHK札幌放送局の嘱託となるとあるので、札幌に在住して、詩の活動をしていたものと思われます。」(もぐら通信第25号)


[註5]
安部公房が、1955年までは顕著に詩人たちと積極的に交流のあったことは、『安部公房と共産主義』もぐら通信第29号)に書いた通りです。再掲して、この時期の安部公房の姿を思い出し、三島由紀夫との出会いを、平板にではなく立体的に、考えるためにお伝えします。

「安部公房の、リルケに学んだ10代以来の言語藝術観、即ち小説も戯曲もいづれも、時間の空間化(時間の変化を関係の変化、即ち関数に変換する)という考えは、この意味でも、正しかった。このように考えて来ても、安部公房の言語藝術観とマルクス主義は、水と油でした。しかし、これを統合しようとしたのが、この、日本共産党員時代の10年間の、特にその前半の5年間の1955年2月25日までの安部公房の苦闘なのです。その統合のために、やはり詩はその前半の5年間の期間に亘って、詩誌『列島』の詩人たちとの交流によって[註8]、それから『列島』以外の詩人たちの交流によって[註5-2]、そうして、シナリオの執筆は、その後半の5年間に亘って、[註6]に書いた理由によって、安部公房のこころを救ったのです。

安部公房はシナリオ(劇作)を書くことによって、純情な詩人から辛辣な散文家に変容したということになります。戯曲とシナリオは、それほど安部公房の人生にとって重要な意義を持っております。


(略)

そして、しかし、1955年2月25日の『猛獣の心に計算機の手を』を書いたあと、このエッセイでの確信はほぼ揺らぐことなく、1958年10月1日の柾木恭介との対談「詩人には義務教育が必要である」(全集8巻、178ページ)では、「詩というジャンルはすでに死滅したジャンルだね」と断言していて、既にこのときには、完全にマルクス主義の影響から脱していることがわかります。

この対談での安部公房の、当時の詩人達への痛烈な批判を読むと、安部公房は、1953年に書いたあの無残な文章の後の、幻想の破綻から立ち直って、本来の安部公房を取戻していることが判ります。

そして、この1950年代の後半の志向は、ドキュメンタリー(記録藝術)とミュージカルに向かいます。この志向は、明らかにそのまま1970年代の安部公房スタジオの活動につながっています。それは、安部公房のドキュメンタリー(記録藝術)の考えを読みますと、そのことが判ります(『ドキュメンタリー - 現在の眼』、全集第7巻、110ページ。1957年)。

このドキュメンタリー(記録藝術)という言葉との関係で、1955年の前と後の違いを一言でいえば、これ以前には、現実に対して法則的な必然を求めたのに対して、その夢から覚めた後には、終生、現実に対して偶然を、現実的な偶然とその偶然的な相矛盾する諸要素の互いに自律的で且つ総合的な表現を求めたと簡潔に言い切ることができます。[註3]

(略)

[註5-2]
全集には、大島滎三郎という詩人との交流が書簡に残っており、この詩人との書簡には、当時安部公房が詩人から小説家(散文家)になろうと努力しているときのこころの不安を読むことができます(もぐら通信第9号『安公房の変形能力7:リルケ4~詩人から小説家へ、否、詩人のまま小説家へ~』)。日本共産党員時代の前半の5年間には、1951年には、飯島耕一という若いシュールレアリズムの詩人との交流もあって、一緒にフランス映画『田舎司祭の日記』」(原作ジョルジュ•ベルナノス、監督ブレッソン)を観たり(もぐら通信(第27号)『詩人たちの論じた安部公房論(1):飯島耕一『安部公房―あるいは無罪の文学』』参照)、また1953年には北海道の詩人更科源蔵や吉田一穂(よしだいっすい)といった詩人たちとの交流もあって、道東を訪ねたりした時代です(もぐら通信(第25号)の『更科源蔵と安部公房』参照)。特に、更科源蔵や吉田一穂との道東の旅は、後の『どれい狩り』(同名の小説は1954年、戯曲は1955年)や『ウェー』(1975年))という戯曲を生み出す契機を授けてくれた価値ある旅でした。

また、安部公房は、1952年3月に『列島』という当時の有力な詩誌の創刊号の編集委員に名を連ねております。[註8]参照。

(略)

他方、同時期、1952年3月に、安部公房は、『列島』という詩誌の創刊号に編集委員として、椎名麟三とともに、小説の世界から名を連ねています。[註8]
やはり、この苦しい時期にも、安部公房を支えたのは詩の世界でした。この詩誌はシュールレアリズムを含み、シュールレアリズムからドキュメンタリズムを志向する詩人の集まりでした。このとき既に、安部公房は1950年代後半の記録藝術の会での活動を詩の世界で先取りしております(小海永二著『日本戦後詩の展望』研究社叢書、100ページ~108ページ)。

[註8]
『列島』は、大東亜戦争敗戦後の日本語の世界の二大詩誌『荒地』(あれち)と『列島』の片方の雄であり、『荒地』と並んで詩の新たらしい潮流を生み出した詩誌でした。
『列島』がシュールレアリズムからドキュメンタリズムを志向する詩誌であり、如何にも安部公房の志向に合った詩誌でした。また、その詩誌の名前が『列島』ということから判るように、日本の国と国民のあり方を問題意識に持っていて、サークル詩の活動を組織して、全国的に組織だった活動を行ったのに対して、『荒地』は、個人としての詩人を中心に、お互い自律的にその活動を行った詩誌です。後者の現実認識は、大東亜戦争敗北後の日本の国土は、その精神の国土も含めて、荒地であるというものであり、詩誌の名前はそのことに由来します。二つの詩誌に共通するのは、シュールレアリズムです。後者にあって前者にないのは、戦前からのモダニズムです。前者『列島』は、1952(昭和27)年3月創刊,1955(昭和30)年3月終刊、後者『荒地』は、1947(昭和22)年9月創刊、1948(昭和23)年6月終刊。『列島』と安部公房については、稿を改めて論じます。」



最後にまとめますと、安部公房と三島由紀夫の機縁は、次の3つの機縁ありということになります。

1。三島由紀夫ー蓮田善明ー阿部六郎ー安部公房
2。三島由紀夫ー石川淳ー安部公房
3。三島由紀夫ー伊東静雄ー蒲池歓一安部公房


1は、旧制高等学校の師弟の縁(成城高校での師弟の縁)
2は、散文の縁(散文精神の縁)
3は、詩文の縁(詩魂の縁)


と、このようになります。

さて、安部公房の言によれば、二人はあらゆる接点を共有していながら互いにすべての接点で正反対の方向、或いは接点そのものの陰陽が裏返っている(「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」全集第29巻、73ページ下段)とは何を意味するのか、如何に二人の藝術上の関係と其のあり方が、先の敗戦の後の日本の国に対する徹底的且つ苛烈なる批判そのものであるかは、二人の藝術観の対照も含めて、言語の観点から、稿を改めて論じます。





2015年12月27日日曜日

もぐら通信第41号(新年号)の目次が決まりましたので、おしらせします。

もぐら通信第41号(新年号)の目次が決まりましたので、おしらせします。

1_ニュース&記録&掲示板
2_I ain’t got a penny:中田耕治
3_もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
4_特集:安部公房と成城高等学校(4)
5_存在とは何か
6_私の本棚より:統計熱力学で安部公房を読む
7_リルケの形象詩集を読む(10):『花嫁』

8_編集者通信:龍安寺石庭

書斎で執筆中の安部公房: Kobo Abe in his writing room







2015年12月26日土曜日

もぐら通信第40号を発行しました。



もぐら通信第40号を発行しました。


目次は次の通りです。

0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 安部公房を巡る思い出(最終回):中田耕治…page 8
3 特集:安部公房と成城高等学校(連載第4回)…page 15
4 ABE日誌8:滝口健一郎…page 16
5 安部公房と三島由紀夫の出会いと別れ~安部公房、石川淳、三島由紀夫~:岩田英哉…page 18
6 リルケの『形象詩集』を読む(連載第9回):『愛をなす女』『Die Liebende』…page 29
7 編集者通信:奉天の窓から日本の文化を眺める(5):龍安寺石庭…page 42                   
8 編集後記…page 43
9 次号予告… page 43

・本誌の主な献呈送付先…page 44
・本誌の収蔵機関…page 44
・編集方針…page 44
・バックナンバー…page 44
・前号の訂正箇所…page 44


師走の寒さも何ものぞ、今月もまた、あなたの巣穴で安部公房とのひと時をお過ごし下さい。

もぐら通信



2015年12月2日水曜日

[もぐら通信]次の読者へのメールが不達で戻って参ります。



次の読者の方へのメールが、過去何度も不達で戻って参ります。

新しいアドレスがあれば、お伝へ下さい。

連絡がなければ、次号より配信を致しませんので、ご了解下さい。

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