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2015年7月10日金曜日

巽先生のツイートに答える我が遊歩者箱男論2:石川淳の場合

巽先生のツイートに答える我が遊歩者箱男論2:石川淳の場合

と、さう思えば、安部公房の(存在の中での師弟関係にあった其の)師たる石川淳も、都会の散歩者であり、遊歩者であり、flanuerであることを思い出したので、ここに書いて、読者にお伝えしたい。

即ち、何も時間を捨象して、遊歩者を洗い出すまでもなく、安部公房を中心にして考えると、その前後に遊歩者がいるという事実を思いださうというのです。

安部公房の前の遊歩者は石川淳ですが、後の遊歩者の名前はなんというのだろうか。

石川淳と安部公房の対談があります。これは全集第21巻7ページ。1967年の8月5日の発表で、安部公房43歳。この年は『燃えつきた地図』を9月30日に刊行しますから、その直前の対談ということになります。

この対談は、石川淳の側からみますと『夷斎座談』という対談集にまとめられていて、今これを紐解くと、実に多士済々、当代の一流の藝術家や学者たちと対談をしていて、誠に壮観、話の内容も実に濃厚なる味のするもので、折あらば、安部公房の読者には、安部公房とは存在の師弟関係を結ばしめた此の夷斎先生の対談集をお読みいただきたいと思います。ちなみに、労を厭わずに今名前を列挙すれば、以下の通り。

佐々木基一、武田泰淳、花田清輝、川端康成、三島由紀夫、吉川英治労、中野重治、貝塚茂樹、金谷治、中村幸彦、野口武彦、萩原延寿、丸谷才一、中村真一郎、ドナルド・キーン、大岡信、安東次男

安部公房は2回、三島由紀夫は3回、吉川幸次郎は2回。この三人の登場回数が一番多い。

三島由紀夫との対談『肉体の運動 精神の運動』『破裂のために集中する』も実に夷斎先生も三島由紀夫も、それぞれのご当人を彷彿とさせて面白い。これら二人のような過激な理論と実践の一致した文学者は今は極めて稀でありませう。

さて、この対談集の中で『石川淳の人と文学』と題した対談が、安部公房との対談です。それ以外の対談には、こんな名前はついていないので、これはやはり、編集部のつけた、そうして他の対談相手とはやはり異なった二人の関係を示しているものでありませう。

前置きが随分と長くなりましたが、その最初のところに次のようなやりとりがあります。

「安部 石川さんに初めてお会いしたのは、確か品川のお宅でしたね。
 石川 品川じゃない、下北沢だ。品川の前だよ。つまり、きみの『終りし道の標べに』が出たときだ。このあいだ、きみの芝居(「友達」)のプログラムにも、そのことは書いたけど。
  (略)
 安部 ぼくはなんか品川のときの印象がひじょうに濃厚なものですから、あそこだったような気がしていたんですが。(略)玄関のわきに部屋がありましたね。あそこにいたら、あとからまた新聞社の人ですか、やってきましてね。そうしたら石川さんが応対に出て、向こうがまだなにも言っていないのに、いきなり、「うるさい、帰れっ」て言ったでしょう。」
 石川 ぼくが……?
 安部 あれはちょっとショックでしたね。
 石川 そうだったかな。そんなことは言いそうだけれども、だれにそう言ったのかははっきり覚えていない。
 安部 びっくりしましたね、もう。あのときのことは今でも忘れないんですよ。
 石川 きみに言ったわけじゃないだろう。
 安部 ぼくは安全だったんですよ。
 石川 きみに言ったんじゃないとすれば、きみとはすでに知り合いだったということだな。下北沢のうちですでに知っていたんだよ。
 安部 あのころから石川さんはよく散歩してましたけど、今でも散歩はなさっていますか。
 石川 今の東京には十分に散歩できるだけの仕掛けがないね。散歩できるところに行くのに、車で二時間ぐらいはかかる。したがって歩けなくなっているね。
 安部 石川さんの小説の中で、ときどきずいぶんあたらしい風俗を描いていらっしゃいますね。あの最新風俗は、どういうアンテナでキャッチしているんですか。ぼくは石川さんの散歩なんていうのも、そのアンテナじゃないかと思ったんですが。
 石川 それほど意識はしてない。小説だとそのなかで風俗をつくることもできるしね。もしも、ぼくの小説のなかでそういう風俗ということで成功しているとすれば、それはマグレあたりだ。

これを読むと、石川淳も都会の散歩者、或いは遊歩者であることがわかります。

しかし、1967年には既に「今の東京には十分に散歩できるだけの仕掛けがないね。散歩できるところに行くのに、車で二時間ぐらいはかかる。したがって歩けなくなっているね。」といわしめるほどの都会になっていて、遊歩者としての石川淳は遊歩することができないようになっている。

「散歩できるどころに行くのに、車で二時間ぐらいはかかる。」というところを見ますと、石川淳は、都会のなかに自然をむしろ求めていたのかも知れないと思います。

また、

と、こう考え来ると、詩人西脇順三郎もまた遊歩者でした。そうして遊歩し、逍遥し、散歩するままの景色と思う心象を詩に転じた。そうして、その遊歩する場所も、都会東京から離れた西の多摩の丘陵地帯であった。西脇順三郎の詩のなかの遊歩については、都会との関係をもう少し調べてみなければなりません。しかし、この詩人は新潟の産ですから、それもわかるような気がします。

1923年(大正12年)11月に関東大震災が起きます。そうして、江戸の町並みが崩壊する。

谷崎潤一郎は、そのあと、関西に移住します。永井荷風は大川(隅田川)を向こうに渡って千葉県の市川に居を移します。

それから、東京は先の戦争で更に破壊され尽くされ、1960年代の俗にいう高度経済成長で更に更にまた徹底的にコンクリート化された東京という大都会で、この対談は関東大震災から44年経ったところだと考え、そう思い返してみて、上のような石川淳の発言を読みますと、いよいよこれが東京と江戸時代の文化的風趣のつながりのあることの限界かとも思えるのです。

「 今の東京には十分に散歩できるだけの仕掛けがないね。」という石川淳の言葉に、それを感じます。

これら3人は江戸ッ子であり、江戸の文学を深く理解をしており、また自らの文学を歴史と伝統の上に、その継続性と継承性を大切にして展開した作家たちであるからです。この3人は私小説の作家ではなく、それを徹底的に否定した作家です。

即ち、日本の国の西洋文明にならつた近代国家に徹底的に抗した。

今のドイツのベルリンを見ると、町並みは、戦前となんら変わっていないように見える。ドイツ人は中世の町並みを戦前通りに再現して都市を復興させたからですし、これがドイツ人です。勿論、ベルリンは大都会ですから城壁もお城もはありませんけれど。また、パリも同様に変わらぬように見える。ニューヨークについては言うまでもない。

東京を、そのままこれらの欧米の都市とすっかり同列に論じることはできないように思います。

とは言へ、安部公房は、1957年33歳のときには『アメリカ発見』と『都会』というエッセイを書き、1964年40歳ときに『モスクワとニューヨーク』という都市論を書いています。また、1978年44歳には『都市への回路』という対談があり、1980年46歳のときには『都市を盗る』という写真とエッセイ集を出しています。

これらを通覧すれば、安部公房が都市をどのように考えていたのかが、わかる筈です。

こうして見ますと、確かに安部公房は若年より安部公房スタジオの終焉までは、都市に対する関心を持ち続けたことがわかります。

安部公房は1980年頃から箱根の仕事場に引き籠りますから、この年も、安部公房の節目の年ということになります。

巽先生のおつしやる都市文学という視点から安部公房の世界を眺めれば、20代から1980年まで、それから後は都市の外に住んで隠棲したということになります。

さて、それはそれ。作品としては果たしてどうかというのが、次の質問になります。

(続く)

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