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2015年7月28日火曜日

もぐら通信第36号(8月号)の目次が決まりましたので、おしらせします



もぐら通信第36号目次

もぐら通信第36号の目次が決まりましたので、おしらせします。

1。ニュース&記録&掲示板
2。目次
3。安部公房を巡る思い出5:中田耕治
4。安部公房 写真の文学:近藤一弥[転載の許可を得次第]
5。特集:安部公房と成城高等学校(連載第1回)
6。安部公房スタジオの演技概念『ニュートラル』と森鷗外の『都甲太兵衛』
7。リルケの『形象詩集』を読み解く(連載第5回)
8。編集者通信:奉天の窓から日本の文化を眺める(2):巻物
9。編集後記


2015年7月27日月曜日

中田耕治さん若き安部公房を語る 7:武井武雄



中田耕治さん若き安部公房を語る 7:武井武雄


            【25】

「 昭和の少年たちは――「のらくろ」、「日の丸旗之助」、「冒険ダン吉」といったマンガを読んで育った。女の子の場合は、「長靴三銃士」、松本 かつじの「くるくるくるみチャン」といったマンガを読んでいたはずである。
 安部君と私は、こうしたマンガを話題にしたことはない。

 戦前に出た児童向きの本で、もっともすぐれたシリーズは「小国民文庫」だった。
 このシリーズには、菊地 寛の「日本の偉人」、里見 敦の「文章の話」、吉野 源三郎の「君たちはどう生きるか」といったすぐれた作品が入っていた。外国文学でも、チャペックや、エリッヒ・ケストナーの「点子ちゃんとアントン」などが入っていた。
 科学の分野でも、石原 純、野尻 抱影などが、地球物理学、宇宙物理や天文学について、子どもにもよくわかるやさしい解説を書いている。アムンゼンの極地探検や、リヴィングストーンのアフリカ探検などが入っていた。
 このシリーズの各巻にマンガが連載されていた。
 これが、「青ノッポ赤ノッポ」。
 作者は、武井 武雄。」

以下次のURLへ:

http://www.varia-vie.com


「青ノッポ赤ノッポ」の写真です:
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1168980




2015年7月25日土曜日

安部公房の色紙(3):絶望と希望



もぐら通信第35号を発行しましたので、お届けします。

暑い夏を、如何お過ごしでしょうか?

もぐら通信第35号を発行しましたので、お届けします。


目次は、次の通りです。

0。ニュース&記録&掲示板:
1。目次
2。安部公房を巡る思い出(連載第4回):中田耕治
3。存在感覚の変換:埴谷雄高
4。ABE日誌3:滝口健一郎
5。巽先生とのツイートによるやりとりと遊歩者箱男論:編集部
6。二十世紀のドイツの文学辞典の安部公房:編集部
7。リルケの『形象詩集』を読む(連載第4回):ハンス・トマ
  スの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の二つの詩のうちの
  ふたつめの詩『騎士』:岩田英哉
8。編集者通信:三島由紀夫と成城高等学校:蓮田善明と安部公房
9。編集後記
10。次号予告

では、今月も、あなたの巣穴で、暑気の合間の消閑に、安部公房とのひと時を。


もぐら通信

2015年7月23日木曜日

Kobo Abe as Photographer 安部公房 写真展』写真集図録

                     『kobo Abe as Photographer 安部公房写真展』展覧会図録
                                             1996年の展覧会図録








2015年7月22日水曜日

中田耕治さん若き安部公房を語る6:フッサール、リルケ、ニーチェ


中田耕治さん若き安部公房を語る6:フッサール、リルケ、ニーチェ


安部公房が中田耕治さんと出逢ったころ、そうして『近代文学』に出入りをしていたころに、盛んに二人で話をしていたことは、フッサール、リルケ、ニーチェであることが分かります。

また、特に『近代文学』の同人のうち、安部公房を評価し、安部公房がよく話をした相手が、埴谷雄高であり佐々木基一であること。

また、安部公房は、山室静や中田耕治さんを相手に、リルケを語ったこと。リルケを語ることに、「救い、癒しといったものをおぼえ」ていたこと。


                                      【24

           (略)

 当時の安部君にとっては「近代文学」の人たちの話題が、「輪郭不明の朦朧体」としか見えなかったのは、止むを得ないことだった。安部君は、日本の文壇小説にまるで関心がなかったからである。

 「終りし道の標べに」は、初版(1948年)のあと、どういうものか、20年間、再刊されなかった。むろん、安部君が、その20年にまったく別の世界を切柝したのだから、あらためて処女作を出すことなど考えなかったに違いない。それは、「無名詩集」もおなじことで、作家はこの詩集の再刊を許さなかった。
 この詩集をまっさきに称揚したのは、佐々木基一さんだった。

以下次のURLへ:

2015年7月15日水曜日

安部公房の戯曲『鞄』が演劇ユニット「ビニヰルテアタア」により上演される


安部公房の戯曲『鞄』が演劇ユニット「ビニヰルテアタア」(ビニールテアター)により上演される



神保町のイベントスペース「エディトリー」(神田神保町2、TEL 03-3263-0202)で7月24日~27日、東京を拠点に活動する演劇ユニット「ビニヰルテアタア」(ビニールテアター)の第6回公演が行われる。


2012年6月に設立された演劇ユニット「ビニヰルテアタア」。メンバーは劇作家・演出家・役者・ライターの千絵ノムラさんと、役者の目黒杏理さん。2人とも老舗アングラ劇団である劇団唐組と新宿梁山泊の出身。

神保町を舞台に選んだのは、本や楽器の街など多様な文化を持ちながら、実は演劇が根付いていないという現状から。神保町で新たな演劇の流れを作りたいと考え、劇場ではないイベントスペースで公演をすることに決めた。

上演するのは、安部公房の短編戯曲「鞄」と、ビニヰルテアタアの2人がそれぞれ書いたオリジナルの「鞄」の3本。

演時間は24日=20時、25日=14時、19時、26日=13時、18時、27日=13時。上演時間は75分を予定。料金は、事前予約=2,500円、学割=2,300円、当日=2,800円。安部公房の本を持参すると100円キャッシュバックされる「安部公房割」も。


中田耕治さん若き安部公房を語る5:小さな出来事


中田耕治さん若き安部公房を語る5:小さな出来事

ありがたきことに、中田耕治さんの投稿が続いています。

近代文学のみならず、先の戦争の後の(ということは戦前からということになりますが)、日本の作家たちの外国語の能力は、やはり、素晴らしいものがあるということがわかる貴重な証言です。

また、謎の、東大仏文出の秀才作家は一体誰なのか、興味津々の22回目です。



                【22

いまさらながら、「近代文学」の同人に私は多くを負っている。

 1946年、「近代文学」の人たちについてあまり知らなかった。
 戦後になって、シュヴァイツァーの「文化の再建」を読んだ。これは山室静の訳だった。トーマス・マンの「自由の問題」や、イーヴ・キューリーのロシア紀行、「戦塵の旅」なども読んだ。トーマス・マンは、高橋義孝訳。イーヴ・キューリーは、坂西志保、福田恆存共訳。

 山室静は、翻訳家として知られていた(というより、私がたまたま翻訳を読んでいただけのことだが)。高橋義孝も、福田恆存も、まだ無名だったに違いない。
 しかし、こうした本を読みつづけているうちに、はじめて翻訳という仕事に興味をもつようになった。

 「近代文学」の人たちは、いずれも外国語に造詣が深い。
 荒さんは英語の本を訳しているし、埴谷さんはドイツ語でカントを読んでいる。佐々木基一さんも、後にルカーチを翻訳するほどの語学力を身につけている。

 ただし、私は語学を勉強する気はまったくなかった。

 これまで一度も書いたことはないのだが、私が外国語を勉強する気を起こさなかった小さなできごとがある。


2015年7月14日火曜日

もぐら通信第35号の目次を更新してお伝えします。



もぐら通信第35号の目次を更新してお伝えします。


予定する目次は、次の通りです。

0。ニュース&記録&掲示板:
1。安部公房を巡る思い出(連載第4回):中田耕治
2。存在感覚の変換:埴谷雄高
3。ABE日誌3:滝口健一郎
4。巽先生とのツイートによるやりとりと遊歩者箱男論:編集部
5。二十世紀のドイツの文学辞典の安部公房:編集部
6。リルケの『形象詩集』を読む(連載第4回):『騎士』:岩田英哉
7。編集者通信:三島由紀夫と成城高等学校:蓮田善明と安部公房

発行は、7月25日(土)を予定しています。


もぐら通信

2015年7月13日月曜日

三島由紀夫と成城高等学校:蓮田善明と安部公房

三島由紀夫と成城高等学校

三島由紀夫の文学の世界の方達と交流の始まるにつれ、三島由紀夫と安部公房の出逢いの機縁は、中田耕治さんと安部公房が世紀の会を設立するより以前に、既に成城高校にあることが判りました。

これは、勿論、三島由紀夫の世界の読者も知らないことで、やはりわたしが安部公房の読者であることから知られることなのです。

十代の三島由紀夫の天才を見抜いた二人の文学の先達、即ち清水文雄と蓮田善明のうち、後者は、昭和13年、西暦1938年に、成城高等学校の教授として此の高校に着任しております。

このとき、三島由紀夫は13歳、安部公房は奉天にいて14歳。

この着任の年に、

「同年、清水文雄らと雑誌「文藝文化」を創刊。同人には他に池田勉、栗山理一らがいた。のちに同人に加わる三島由紀夫の『花ざかりの森』が掲載された昭和16年9月号の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」[1]と記し、三島を激賞した。」[https://ja.wikipedia.org/wiki/蓮田善明]

とWikipeidaにあります。以後すべての引用は、Wikipediaの引用です。

「1939年(昭和14年)、中支戦線洞庭湖東部の山地に従軍」とあり、また「1939年(昭和14年)、中支戦線洞庭湖東部の山地に従軍、歩兵少尉軍務の余暇に各論考、日記を書き綴り、『鴎外の方法』を出版。1943年(昭和18年)、陸軍中尉として再召集。1944年(昭和19年)よりインドネシアを転戦。1945年(昭和20年)8月19日、ジョホールバルにて所属する部隊の歩兵第123連隊長・中条豊馬大佐を射殺。その後、ピストル自決。享年41。」

とありますので、1939年のある月までは、そうして1943年の再度の応集までの期間は、成城高校の教授職にあったと考えられます。

三島由紀夫の『花ざかりの森』を書いたのが16歳、昭和16年ですから、この年は西暦1941年。

安部公房は、16歳のときに成城高校に入学します。

この期間に、安部公房は、成城高校の廊下で蓮田善明と行き合って、生徒としての礼をとり、礼儀正しい挨拶をしたのではないでしょうか。もし再度の応集までの期間に、蓮田善明が成城高校の教職にあったとすれば、これは間違いのないことと考えてよいでありましょう。ここは実際にどうであったのか。蓮田善明が成城高校で教鞭をとった期間を知りたいものです。

さて、三島由紀夫に多大な影響を及ぼした此の優れた国文学の教師は、大日本帝国の敗戦直後、1945年8月19日に、

「敗戦を中隊長(陸軍中尉)として迎えての4日後、応召先のマレー半島ジョホールバルの連隊本部玄関前で上官である連隊長・中条豊馬陸軍大佐を射殺。その数分後に同じピストルをこめかみに当てて自決を遂げた。その時、左手に握り締めていたものは、「日本のため奸賊を斬り皇国日本の捨石となる」という文意の遺歌を書いた一枚の葉書だったといわれる。

鳥越春時副官の記憶によると、中条豊馬大佐は、「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という。」

とある理由による自殺を遂げます。

さて、更に話は続きます。

「翌1946年(昭和21年)11月17日に、成城学園の素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」が行なわれた。出席者は、桜井忠温、中河與一、清水文雄、阿部六郎、今田哲夫、栗山理一、池田勉、三島由紀夫。出席者だけで蓮田の思い出を小冊子にまとめ、蓮田を深く知る版画家・棟方志功装幀で『おもかげ』という題名で発刊した。」

この蓮田善明の追悼の会に出席した上の出席者の名前に、阿部六郎という名前を発見して、安部公房の読者は驚くことでありましょう。

何故ならば、阿部六郎こそは、成城高校時代の安部公房の恩師であり、安部公房にドイツ文学を授け、ニーチェを教え、安部公房が大変感化を受けた人間であるからです。(安部公房全集に残る阿部六郎宛の書簡によって、安部公房の阿部六郎に対する疑うことのない信頼を知ることができます。)

そうして、阿部六郎の名前と共に、21歳の三島由紀夫が同席をしているという、この事実。

安部公房と三島由紀夫が実際に初めて会うのは、この二年後の1948年か、遅くても三年後の1949年です。中田耕治とふたりで立ち上げた世紀の会の最初の読者会の課題図書が、当時出版された、『夜の仕度』を入れた三島由紀夫の短編集でありました。この作品は1947年の発表。他の短編と併せて刊行された年の確定をしなければなりません。

成城学園の素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、阿部六郎は、間違いなく三島由紀夫と言葉を交わしたことでありましょう。

安部公房が『粘土塀』(改題『終りし道の標べに』)を阿部六郎に持ち込んだのは、1948年。安部公房24歳。

世紀の会で二人が出会ったのは、三島由紀夫が『終りし道の標べに』を賞賛した文章を発表した後であったのか前であったのか。これも調らべるに値する興味深いことです。いづれにせよ、その後、近代文学の集まりでも、安部公房と三島由紀夫は会っていたことは間違いないでありましょう。

三島由紀夫ー蓮田善明ー阿部六郎ー安部公房という、このような関係のあること、そうして実際に三島由紀夫と阿部六郎が蓮田善明の追悼会であっていること、従い成城高校の同じ教授職としても、阿部六郎と蓮田善明は親しくお互いを理解し合っていたに違いないこと、これらの事実は、三島由紀夫と安部公房という二人の相補的な、補完関係にある藝術家同士の、その前段の歴史であり、この目に見えない糸の結ばれた歴史の土台の上に、二人の戦後の活躍があったということが、わたしには誠に尊いことだと思われるのです。それぞれの本来の文化的な意志に反して、政治的に両極端に誤解をされ続けた二人であれば尚更のこと。

阿部六郎の翻訳したシェストフの『悲劇の哲学』(河上徹太郎共訳)や、中田耕治が感銘を受け後年『ゴーゴリ論』を書く契機となったという、ゴーゴリの「ディカニカ近郊夜話」に出てくる「ヴィー」、「ウェージマ」という地霊や魔女について書いた阿部六郎の『地霊の顔』がどのような作品なのか、安部公房の読者としては、これらの作品とその文学的活動について、丁度三島由紀夫の世界の蓮田善明に当たる方ですから、もっと安部公房の側の世界で調べられ、研究されてよいのではないかと、わたしは思います。

今まで、このような研究が、本当になおざりにされていたと、わたしは思います。



2015年7月11日土曜日

安部公房のエッセイを読む会(第1回)開催のお知らせです


安部公房のエッセイを読む会(第1回)開催のお知らせです

第1回「安部公房のエッセイを読む会」が開催されます。

(1)日時:8月30日(日)13:00から17:00まで
(2)場所:南大沢文化会館。京王線の相模線(調布で分岐)南大沢駅下車徒歩2分。:http://www.hachiojibunka.or.jp/minami/
(3)課題図書:『没落の書』(全集第1巻、140ページ)
(4)参加のご連絡:eiya.iwata@gmail.com(岩田)まで
(5)費用:無料
(6)二次会:駅隣の焼き鳥屋「鍛冶屋文蔵」です。お一人3000円というところです。:http://r.gnavi.co.jp/r5zkdjgg0000/menu6/

(7)その他:「十代の安部公房を読む会」が十代のエッセイと論文を読了しましたので、二十代以降遺作『もぐら日記』までのエッセイを全篇徹底的に読み尽くす読書会となりました。資料のないかたはご連絡下さい。

中田耕治さん安部公房を語る4:「おもちゃ箱」から


中田耕治さん安部公房を語る4:「おもちゃ箱」から

 「安部君のエッセイ、「おもちゃ箱」が書かれてからも、さらに長い歳月がながれている。
 私にしても、「戦後」の思い出などは、自分でももはや実態のない、茫漠とした、ときには混沌としたものになっている。
 当時の埴谷さんの印象を書いている。

    洞窟のような寛容さをもった口をしていた。口が印象的なのは、たぶんあの笑い方のせいだろう。それは、まことにデモクラチツクな笑い方で、どんなに臆病な相手でも、さりげなく対話の勇気を与えてくれたりしたものだ。

 という。

 私は、埴谷さんにいろいろな質問をしては、その一つひとつを心に刻みつけようとしていた。
 一方、安部君は、「近代文学の連中」とは、それほど親しみをおぼえなかったと見ていい。「近代文学」のなかでは、「埴谷雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している」のは、いつもきまって埴谷さんと話をしていたからだろう。

  (略)」

以下は、次のURLにて:





2015年7月10日金曜日

巽先生のツイートに答える我が遊歩者箱男論2:石川淳の場合

巽先生のツイートに答える我が遊歩者箱男論2:石川淳の場合

と、さう思えば、安部公房の(存在の中での師弟関係にあった其の)師たる石川淳も、都会の散歩者であり、遊歩者であり、flanuerであることを思い出したので、ここに書いて、読者にお伝えしたい。

即ち、何も時間を捨象して、遊歩者を洗い出すまでもなく、安部公房を中心にして考えると、その前後に遊歩者がいるという事実を思いださうというのです。

安部公房の前の遊歩者は石川淳ですが、後の遊歩者の名前はなんというのだろうか。

石川淳と安部公房の対談があります。これは全集第21巻7ページ。1967年の8月5日の発表で、安部公房43歳。この年は『燃えつきた地図』を9月30日に刊行しますから、その直前の対談ということになります。

この対談は、石川淳の側からみますと『夷斎座談』という対談集にまとめられていて、今これを紐解くと、実に多士済々、当代の一流の藝術家や学者たちと対談をしていて、誠に壮観、話の内容も実に濃厚なる味のするもので、折あらば、安部公房の読者には、安部公房とは存在の師弟関係を結ばしめた此の夷斎先生の対談集をお読みいただきたいと思います。ちなみに、労を厭わずに今名前を列挙すれば、以下の通り。

佐々木基一、武田泰淳、花田清輝、川端康成、三島由紀夫、吉川英治労、中野重治、貝塚茂樹、金谷治、中村幸彦、野口武彦、萩原延寿、丸谷才一、中村真一郎、ドナルド・キーン、大岡信、安東次男

安部公房は2回、三島由紀夫は3回、吉川幸次郎は2回。この三人の登場回数が一番多い。

三島由紀夫との対談『肉体の運動 精神の運動』『破裂のために集中する』も実に夷斎先生も三島由紀夫も、それぞれのご当人を彷彿とさせて面白い。これら二人のような過激な理論と実践の一致した文学者は今は極めて稀でありませう。

さて、この対談集の中で『石川淳の人と文学』と題した対談が、安部公房との対談です。それ以外の対談には、こんな名前はついていないので、これはやはり、編集部のつけた、そうして他の対談相手とはやはり異なった二人の関係を示しているものでありませう。

前置きが随分と長くなりましたが、その最初のところに次のようなやりとりがあります。

「安部 石川さんに初めてお会いしたのは、確か品川のお宅でしたね。
 石川 品川じゃない、下北沢だ。品川の前だよ。つまり、きみの『終りし道の標べに』が出たときだ。このあいだ、きみの芝居(「友達」)のプログラムにも、そのことは書いたけど。
  (略)
 安部 ぼくはなんか品川のときの印象がひじょうに濃厚なものですから、あそこだったような気がしていたんですが。(略)玄関のわきに部屋がありましたね。あそこにいたら、あとからまた新聞社の人ですか、やってきましてね。そうしたら石川さんが応対に出て、向こうがまだなにも言っていないのに、いきなり、「うるさい、帰れっ」て言ったでしょう。」
 石川 ぼくが……?
 安部 あれはちょっとショックでしたね。
 石川 そうだったかな。そんなことは言いそうだけれども、だれにそう言ったのかははっきり覚えていない。
 安部 びっくりしましたね、もう。あのときのことは今でも忘れないんですよ。
 石川 きみに言ったわけじゃないだろう。
 安部 ぼくは安全だったんですよ。
 石川 きみに言ったんじゃないとすれば、きみとはすでに知り合いだったということだな。下北沢のうちですでに知っていたんだよ。
 安部 あのころから石川さんはよく散歩してましたけど、今でも散歩はなさっていますか。
 石川 今の東京には十分に散歩できるだけの仕掛けがないね。散歩できるところに行くのに、車で二時間ぐらいはかかる。したがって歩けなくなっているね。
 安部 石川さんの小説の中で、ときどきずいぶんあたらしい風俗を描いていらっしゃいますね。あの最新風俗は、どういうアンテナでキャッチしているんですか。ぼくは石川さんの散歩なんていうのも、そのアンテナじゃないかと思ったんですが。
 石川 それほど意識はしてない。小説だとそのなかで風俗をつくることもできるしね。もしも、ぼくの小説のなかでそういう風俗ということで成功しているとすれば、それはマグレあたりだ。

これを読むと、石川淳も都会の散歩者、或いは遊歩者であることがわかります。

しかし、1967年には既に「今の東京には十分に散歩できるだけの仕掛けがないね。散歩できるところに行くのに、車で二時間ぐらいはかかる。したがって歩けなくなっているね。」といわしめるほどの都会になっていて、遊歩者としての石川淳は遊歩することができないようになっている。

「散歩できるどころに行くのに、車で二時間ぐらいはかかる。」というところを見ますと、石川淳は、都会のなかに自然をむしろ求めていたのかも知れないと思います。

また、

と、こう考え来ると、詩人西脇順三郎もまた遊歩者でした。そうして遊歩し、逍遥し、散歩するままの景色と思う心象を詩に転じた。そうして、その遊歩する場所も、都会東京から離れた西の多摩の丘陵地帯であった。西脇順三郎の詩のなかの遊歩については、都会との関係をもう少し調べてみなければなりません。しかし、この詩人は新潟の産ですから、それもわかるような気がします。

1923年(大正12年)11月に関東大震災が起きます。そうして、江戸の町並みが崩壊する。

谷崎潤一郎は、そのあと、関西に移住します。永井荷風は大川(隅田川)を向こうに渡って千葉県の市川に居を移します。

それから、東京は先の戦争で更に破壊され尽くされ、1960年代の俗にいう高度経済成長で更に更にまた徹底的にコンクリート化された東京という大都会で、この対談は関東大震災から44年経ったところだと考え、そう思い返してみて、上のような石川淳の発言を読みますと、いよいよこれが東京と江戸時代の文化的風趣のつながりのあることの限界かとも思えるのです。

「 今の東京には十分に散歩できるだけの仕掛けがないね。」という石川淳の言葉に、それを感じます。

これら3人は江戸ッ子であり、江戸の文学を深く理解をしており、また自らの文学を歴史と伝統の上に、その継続性と継承性を大切にして展開した作家たちであるからです。この3人は私小説の作家ではなく、それを徹底的に否定した作家です。

即ち、日本の国の西洋文明にならつた近代国家に徹底的に抗した。

今のドイツのベルリンを見ると、町並みは、戦前となんら変わっていないように見える。ドイツ人は中世の町並みを戦前通りに再現して都市を復興させたからですし、これがドイツ人です。勿論、ベルリンは大都会ですから城壁もお城もはありませんけれど。また、パリも同様に変わらぬように見える。ニューヨークについては言うまでもない。

東京を、そのままこれらの欧米の都市とすっかり同列に論じることはできないように思います。

とは言へ、安部公房は、1957年33歳のときには『アメリカ発見』と『都会』というエッセイを書き、1964年40歳ときに『モスクワとニューヨーク』という都市論を書いています。また、1978年44歳には『都市への回路』という対談があり、1980年46歳のときには『都市を盗る』という写真とエッセイ集を出しています。

これらを通覧すれば、安部公房が都市をどのように考えていたのかが、わかる筈です。

こうして見ますと、確かに安部公房は若年より安部公房スタジオの終焉までは、都市に対する関心を持ち続けたことがわかります。

安部公房は1980年頃から箱根の仕事場に引き籠りますから、この年も、安部公房の節目の年ということになります。

巽先生のおつしやる都市文学という視点から安部公房の世界を眺めれば、20代から1980年まで、それから後は都市の外に住んで隠棲したということになります。

さて、それはそれ。作品としては果たしてどうかというのが、次の質問になります。

(続く)

2015年7月7日火曜日

巽先生のツイートに答える我が遊歩者箱男論


巽先生のツイートに答える我が遊歩者箱男論

今宵七夕の日に、巽先生より我がツイートへのご返信ありぬ。以下、巽先生の言葉を頼りに、ざっと思ったことを、思うままにメモのように書いておいて、後日の安部公房論の一助といたします。巽先生のご返信を誘いし我がツイートも含め時系列にて最初に配して、読者の理解を助けてから、本題に入ります。

[巽先生]
安部公房ファンの雑誌<もぐら通信> 34号(第二版)では岩田英哉の「『箱男』論ーー奉天の窓から 8枚の写真を読み解く」が出色。作家少年時代の奉天体験から「モルグ街」を見直す視点がユニーク。個人的には両者は都市文学なのだと思う。「群衆の人」から『箱男』への距離は決して遠くあるまい。

[もぐら通信発行人]
巽先生、tweet、ありがとうございます。『群衆の人』の最後の一行「自らを読み取られることを拒む書物が存在することは神の恵みの一つなのだ」と結ぶ、これは全く『箱男』というテキストでありますねえ。Crowd = Boxならむや?/岩田 

[巽先生]
@takranke ベンヤミンが「群衆の人」を「探偵小説のレントゲン写真」と呼んでいるのも面白い。「モルグ街」の一年前に書かれた作品に対してはややアナクロニスティックな解釈ですが、安部研究にとっては「都市遊歩者」の概念ともども啓発的でしょう。

[もぐら通信発行人]
然り、然り。そういえば、ポーの創始したデュパンも、パリの街中を歩きながら、あれこれを推理し、謎を解いて、核心をあらわにして、同行の物語の話者を驚かせましたね。

また、そういえば、その後継たるシャーロック・ホームズもまた、そうやってロンドンの街中でワトソン博士を驚かせました。

近代のそれぞれの国家の首都たる都市の中を目的なく逍遥しながら(逍遥とはそのような歩行故、目的なくは贅語ですが)、そこにある様々なる謎を解くというのが、この探偵小説の主人公の持つ、確かに、濃厚なる性格です。

これは、我が愛用するWebster Onlineを引けば、遊歩者という和訳の言葉の元々は、英語の辞書にてもフランス語にて、flaneurというとあります。[http://www.merriam-webster.com/dictionary/flaneur

Definition of FLANEUR
:  an idle man-about-town

また、

Origin of FLANEUR
French flâneur
First Known Use: 1854

とありますので、これはやはり、19世紀の半ばにはヨーロッパ大陸の人口に膾炙する言葉となっていたのでありましょう。

しかし、また、コナン・ドイルも同類の探偵をロンドンの街中に登場させた以上、まあ、グレート・ブリテンも含めて、大陸も島国も、そのような時代を広義のヨーロッパは共有していたということなのでありましょう。

と、翻って、我が国はほとんど数年をおかずして、これらヨーロッパ諸国と同時期に近代国家の憲法を発布したところをみても(明治の先達は偉かった)、公武合体政策により京都から東京に都を移し、しかも江戸という武士の地の名前を近代国家を担う東京という名前に変えて、やはり同様の首都を建築したという歴史的な事実を思い出すことにします。

そうすると、どうなるか。

探偵小説の生まれる同じ土壌を、わが日本もまた得たということになるでしょう。

安部公房を、この線上で眺めてみますと、本人のもともとの閉鎖空間からの脱出という18歳の『問題下降に拠る肯定の批判』はその通りとしても、やはりこの作家の主人公たちには、濃厚に、それが閉鎖空間からの脱出を意図する主人公たちであり、かつ此の作家が奉天での中学生時代以来晩年に至るまでのポーの愛好家ということになれば(ちなみに二人目の大好きな作家はルイス・キャロルとその『不思議の国のアリス』という作品)、探偵小説の趣と、従い、上で見たようなデュパンやホームズ並みの都会の遊歩者の性格を濃厚に備えることを思うことは、おかしなことではないと考えることができます。

そうして、そう考えてみてみると、確かに『終りし道の標べに』の主人公の夢見たのは、渺々たる荒野に無から町を建設することであったし、1960年代になってから前期20年に書いた3本の名作のうちの、『燃えつきた地図』は主人公が探偵で、そのまま都会という迷路をさ迷い、目の前の謎を解くことに汲々とする主人公でしたし、その前の『他人の顔』もまた、そう言えないことは、勿論、ない。

となれば、『砂の女』でさへ、陰画の都会小説であるということができるし、実際安部公房全集の関根弘とのある対談で、安部公房は『砂の女』は陰画としての国家を描いたと言っています。

さらに、1970年という年を跨いで『箱男』を考えてみれば、この箱男こそ、更に『燃えつきた地図』の探偵の進化変形したる都会の乞食以下の人間であった、そうしてそのまま都市の中の、その都市から脱出を図る遊歩者、flaneur、即ちan idle man-about-townであるということができましょう。

何しろ語源に遡って考えれば、近代国家の首都を英語でcapitalとは、これ如何に。数学での行列の列(column)冠(かんむり)という意味であれば、当然のことながら、遊歩者たる探偵小説の主人公は、その列の垂直構造の都会の住所と街区の中から外へと脱出を図ること、これは、人間の思考論理の必定なのです。

つまり、遊歩者は、都会の群衆の外にいる存在(存在とあえて言いましょう我々安部公房の読者なればこそ)なのです。こうして考えてみますと、安部公房が何故『群衆と権力』をものしたエリアス・カネッティを晩年発見して称揚したかが、よく解ります。

ポーとの比較をいえば、そうして巽先生の冒頭の引用を踏まえて考えて、このように考えてくれば、「ベンヤミンが「群衆の人」を「探偵小説のレントゲン写真」と呼んでいるの」は、全くその通りで、『群衆の人』と『箱男』の関係を考えれば、前者は後者のレントゲン写真ということは、安部公房が東京の中での撮影した写真の数々をみれば、明らかです。

ということは、いや論理は逆転して、後者の探偵小説『モルグ街の殺人』と『箱男』こそ、前者『群衆の人』のレントゲン写真ということになりましょう。何故ならば、安部公房の写真はみな、陰画としての都市にある物・事・人の差異のみを撮影することによって、その骨格(構造)を露わにするレントゲン写真であるからです。箱根の仕事場にあったイギリス製の紙製の人骨模型を思いだされたい。

何故ならば、安部公房は東京という都市の中の群衆にある差異ばかりを撮影したからであり、そこから生まれる画像はみな、陰画の群衆、即ち差異に棲む個人であるからです。いや、個人すらいないというべきでありましょう。

その個人ですらない、乞食以下の乞食、言葉をもっと正確に使えば、乞食未満の人間が、箱男という主人公でありました。Less than One.

探偵小説が何故生まれたかというわたしの仮説は、少なくとも日本の国に於いては、明治になってから仇討ちが禁じられたのであるからというのが、その仮説の重要な柱の一つなのです。

裁判所の判決では恨みを晴らすことができないということが一つ。この事情は、今でも最高裁判所の判決に対する被害者遺族の不満不服を折に触れて目にすると、変わらない。品川泉岳寺の四十七士の墓に線香の煙の絶えない理由です。今も、私たちのこころには、元禄時代が生きている。

もうひとつは、上の都会の群衆との関係では、近代国家は複製を多量に生産する国家の中にある首都(capital)でありますから、人は自然に固有の人生を求めるようになり、従い固有の死を願うようになるのではないでしょうか。そのように、わたしは思います。

こうしてみますと、ベンヤミンには、近代工業による複製製品に関する複製論のあることが思い出されます。つまり、人間の生きることの一回性、uniqueなる人生が失われた、そのアウラが失われたという論です。

となれば、近代国家の都市(首都)という開かれた(と普通には思われている)場所の中にすまう群衆の中にいる特異な其の人間個人に対するに、密室の中で殺される被害者こそ、論理逆転した其の対極の、アウラを持った筈の個人でありましょう。

そうして、そのアウラを持った個人の殺人を犯す個人(犯人)こそ、クリスティの『オリエント急行の殺人』という変格ものはありこそすれ、やはり高等なる知能を有する単独犯による密室殺人事件こそ、遊歩者たる探偵の能力を最大限に発揮する世界なのではないでしょうか。

この度もぐら通信第34号にて『箱男』を論じて、この安部公房の小説が、4次元の小説であって、読者もまた箱男による箱男の殺人に加担する箱男になる、そのような小説であれば、やはり都会の中の差異、即ちビルとビルの隙間に棲む箱男こそ、陰画としての群衆の中の箱男であり、もしそのまま此の考えを敷衍させて考えるならば、箱男の集合こそ都会の群衆でありましょう。即ち、

群衆=箱、crowd = box、更に

crowd = box = closed space

ということになりますが、これ如何に。

まさしく、奉天の中学生の安部公房少年も思いもかけぬ結論とはなったようであります。

安部公房の論理によれば、我々は果てしなく都会の中から逸脱する。

追伸:
巽先生は、もとより東京という都市に生まれ育つたCity Boyであります。私は、北海道の原生林の中でヒグマと相撲をとって大きくなったような、文化とは無縁の人間、即ちcountry boyであります。

しかし、このような人間同士で、このように意思疎通が叶うとは、よっぽど近代国家と其の国民にとっては、密室殺人事件の謎を明快に解決する名探偵という都会遊歩者、flaneurは、前者即ち国家にとっては其れは犯罪者に近く、他方後者即ち国民にとっては小説の読者たるひとりひとりに近い物語であり人間であるのでありましょう。

確かに、時空を超えた探偵と殺人者と被害者の話が、『箱男』でありました。4次元小説。

かうして考えて参りますと、確かに、『群衆の人』の最後の一行「自らを読み取られることを拒む書物が存在することは神の恵みの一つなのだ」と結ぶ、これは全く『箱男』というテキストそのものであると思います。


ノエシスとノエマについて:『無名詩集』最後尾のエッセイ「詩の運命」


ノエシスとノエマについて:『無名詩集』最後尾のエッセイ「詩の運命」

中田耕治さんの連載を拝見していて、安部公房の詩集『無名詩集』の最後に置かれたエッセイ「詩の運命」の冒頭の一行、

「総てのものに於いてそうである様に、詩の見解についてもノエシス・ノエマの対立を避ける事は出来ない。」

という此の一行の意味がわかりました。

中田耕治さんによれば、当時二人が出逢ったときに、安部公房は「「純粋現象学」を讀んでいたことは間違いない。あまり、たびたびフッサールが話題になるので、私も「純粋現象学」を読む気になった。」とありますので、これは間違いのないことでありませう。

邦題で『純粋現象学』とある此の哲学書の原題は『Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie』と言い、日本語で流布している巷間の訳では、『純粋現象学、及び現象学的哲学のための考案(イデーン)』となっています。

以下、この言葉の意味をWikipediaより引用してお伝えします:

ノエシス/ノエマ
このように現象学的還元によって得られた、自然的態度を一般定立されている世界内の心ではない意識を「純粋意識」という。
既に述べた通り、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であり、志向性を持つ。したがって、純粋意識の純粋体験によって得られる純粋現象も、志向的なものである。そして、このような志向的体験においては、意識の自我は、常に○○についての意識として、意識に与えられる感覚与件を何とかしてとらえようとする。フッサールは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考された対象をさす「ノエマ」という用語を用いて、意識の自我が感覚与件をとらえようとする動きを「ノエシス」、意識によって捉えられた限りの対象を「ノエマ」と呼んだ。
[https://ja.wikipedia.org/wiki/エトムント・フッサール]

『無名詩集』を発行するときに、安部公房は間違いなくフッサールを読んでいたのです。

中田耕治さんの証言は、誠に貴重なるものがあります。

2015年7月6日月曜日

中田耕治さんが若き安部公房の思い出を語る:安部公房とフッサール

2015/07/05(Sun)  1624
 
                 【20】

 この頃の安部公房が、よく話題にしたのは、フッサールだった。
 いうまでもなく、エドムント・フッサール(1859~1928)である。なぜ、こんなことを書いておくのか。むろん、とりとめもない思い出にすぎないのだが――当時、フッサールの名は「フッセル」として知られていた。
 それなのに、安部君はいつも、フッサールといっていた。

 安部君が「純粋現象学」を讀んでいたことは間違いない。あまり、たびたびフッサールが話題になるので、私も「純粋現象学」を読む気になった。しかし、私の貧弱な頭脳では、フッサールの思想はほとんど理解できなかった。

 私の頭がわるいせいだが――

デカルト普遍的懐疑試行の代わりに、我々の厳密に規定された新しい意味での普遍的「エポケー」を変わらせることが出来るであろう。しかし、われわれは十分なる根拠を以てこのエポケーの普遍性を制限するのである。何故ならば、もしかりにこのエポケーが、いやしくもその可能なるかぎりに包括的なるものであるとすれば、いかなる措定、ないし判断もまったく自由に変様され、判断
の主辞とされ得る如何なる対象性も括弧に入れられる故、変様せられざる判断に対する余地、況んや学に対する余地はもはや残されないという事になるだろうからである。しかるにわれわれのめざす所は・・・
              (略)

以下、中田耕治ドットコムへ:




もぐら通信第35号の目次です

もぐら通信第35号の目次です

1。安部公房を巡る思い出(連載第4回):中田耕治
2。存在感覚の変換:埴谷雄高
3。ABE日誌3:滝口健一郎
4。ドイツの文学辞典の中の安部公房:編集部
5。リルケの『形象詩集』を読む(連載第4回):岩田英哉
6。編集者通信:奉天の窓から日本の文化を眺める(2):巻物


発行は、7月26日(土)です。

2015年7月5日日曜日

安部公房の短編『良識派』についての感想


安部公房の短編『良識派』についての感想


「熱狂的シトロエニストのBMW生活(笑)」という題名のブログを書いていらっしゃる安部公房の読者の方がいて、そこに次のような、これもめづらしく『良識派』という短い話についての感想をお書きになっているので、お伝えします。

この方は、シトローエンというフランスの自動車の好きなかたとお見受けします。自動車についてのブログです。

この作品は、1958年10月の発表。全集第24巻、310ページにあります。

さて、この作品を読みますと、『箱男』脱稿後の講演で話をしているのと同じ動機(モチーフ)についての話だということが、よくわかります。


「2012年09月06日

突然、安部公房のこと

安部公房は私の好きな作家のひとりです。
中学生の頃からのめり込んでいたので、それを目にしたウチの父親は母親に『あいつは赤くなったのか?』と尋ねたと、大人になってから母に聞きました。

確かに昔は左翼作家という評もあったのでしょうが、今にして思うと大江健三郎などと並べてしまってはちょっと違うし、プロレタリア文学というわけでもないし(←そういうニュアンスの作品もありますけどね)、読書好きとして読んで面白いから読んでただけなんですけどね。

なんだかんだで、新潮文庫の作品は全部買って読んだのですが、全集を全て読み込むほどでもなく、全ての作品を知っているというわけでもありません。

こんなことを書き始めたのは、最近のあるブログで、安部公房の『良識派』という作品のことが取り上げられていたからです。
このブログは、ブロゴスに転載されたため多くの人の目に触れました。(私もそのブログはブロゴスで知りました)
  (略)」

以下、次のURLへ:



このブロガーの結尾の言葉に逆らって、この短編を一言でまとめると、それは、この話は、

自由と閉鎖空間と、そこから如何に脱出するかという18歳の『問題下降に拠る肯定の批判』以来の話である

ということになるでしょう。

以前、この「安部公房の広場」に書いた『何故安部公房は自動車が好きだったか』についての論考です。



2015年7月4日土曜日

中田耕治さんの語る若き安部公房:近代文学の時代



中田耕治さんの語る若き安部公房:近代文学の時代





2015/07/01(Wed)  1623
 
     【19

 私は、毎日のように、「近代文学」の人々に会って、色々な話を聞くことで、勉強をつづけてきた。それは、安部君の場合もおなじだったろう。
 私は安部君に自分と似たような魂、まぎれもない詩人を見たのだった。

 ただし、はじめから違っていることにすぐ気がついた。彼は、天才だったが、私は生意気な文学青年だったこと。この違いはどうしようもない。

 安部君は、たとえば、日本の文学、とくに短詩形の文学に、まったく関心がなかった。私は、中学生のときに、久保田万太郎の講演を聞きに行ったり、毎月、歌舞伎座で立ち見をしたり、雑誌なども手あたり次第に読みつづけるような文学少年だった。だから、お互いの違いから、いろいろと話題は尽きなかったのだと思う。

 音楽についても、まるで趣味は違っていた。」

以下、次のURLにてお読みください。安部公房の音楽の趣味がわかって誠に得難い情報が書かれております。:


中田さんがお書きになっている、安部公房の好きだった此のドイツ人の歌手、Gerhard Hüsch(ゲルハルト・ヒュッシュ)の歌声を今YouTubeで聴くことができます。そのうちの幾つかをご紹介します。: