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2015年5月30日土曜日

我が友西村幸祐の講演を聴く:三島由紀夫研究会公開講座

我が友西村幸祐の講演を聴く:三島由紀夫研究会公開講座

昨日(2015年5月29日)、我が友西村幸裕の講演を拝聴。

場所は、市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷、時間は18:30より20:00まで。

演題は、戦後70年と三島死後45年ーダーザイン(現存在)としての三島由紀夫、といふものでした。

レジュメに「ハイデッガーが『存在と時間』で(現存在)と名づけた「おのれの存在において存在へと関わりゆくこと」のできる特別な存在者として三島由紀夫を位置づければ、三島が時間や空間を超えて私たちの意味を問い続ける理由も理解できる。」とある通りに、この「「おのれの存在において存在へと関わりゆくこと」のできる特別な存在者」という人間の在り方は、安部公房の在り方そのものでもあります。

本日もぐら通信第33号を配信しましたので、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(後篇)をお読みくださつたあなたには、納得のゆく言葉でありませう。

この視点、この角度からの三島論は、そのまま安部公房論となり得る充実の2時間半でありました。参会者からも此の視点についての納得の感想の言葉が漏れるのを耳にしたことは、よろこばしいことでありました。

三島由紀夫曰く「わたしのことは百年経たなければわからない」といつたとのことですが、一次情報がなく、この言葉の源の特定が待たれます。しかし、さもありなむと思う言葉です。

安部公房ならば、丁度正反対に、如何に『無名詩集』という詩集が理解されていないかといふことを確かめるために、あるとき、武田勝彦という評論家との対談に応じております。

1972年、三島由紀夫の死後2年目に、安部公房全作品という全集15巻を出したときにも、『無名詩集』を入れることを拒否した安部公房が、この対談に応じた理由は、そのまま三島由紀夫の心に、表現は異なれども、通じていると、わたしは思ひます。

日本の戦後の軽佻浮薄の時代に生きる日本人に如何に自分の詩の言葉が理解されないかを知るために、即ち日本の戦後の時代の文化の程度を測定するために、安部公房は、この対談に応じたのです。これは、誠に安部公房らしい。

上の三島由紀夫の伝聞の言葉は、安部公房の通暁していた二進数のデジタルの世界の論理でいふならば、三島由紀夫の言葉が真であるならば、安部公房の言葉が偽であるやうな、また前者が偽であるならば、後者が真であるような、そのやうな関係にある考へであり、ものの言ひ方だと言えませう。

安部公房全集を読みますと、安部公房といふ人間は、友を求める時に、詩のわかる友、劇を含めた散文を理解する友、哲学を理解する友、この三種類の友を子供のときから求めてをります。

三島由紀夫はこれら三つを兼ね備え、安部公房の言葉を理解することのできた最高の友人でありました。

また、そのうち詩のわかる友として、十代の三島由紀夫にとつての東文彦がさうであるやうに、安部公房にも金山時夫といふ二十歳の初めに亡くなる親友がをりました。これも実によく似てをります。

さうして、三島由紀夫の1970年の死を境にして、安部公房は、三島由紀夫が死の直前に晩年の自分がそうであるといつたやうに、三島由紀夫と共有してゐた十代のリルケの詩の世界に回帰し、ハイムケール(帰郷)して行き、その後半の20年を生きるのです。

三島由紀夫の対談集『源泉の感情』にある安部公房との対談「二十世紀の文学」を読むたびに、この二人の親しき友のこころの通ふ様子を素晴らしいものと思ひます。

やはり、三島由紀夫の十代の詩を論じ、その詩の深い意義と意味を知ることは、安部公房の文学を其の十代の詩を知ることによつて、安部公房の全生涯の作品の核心に至るために必要であるのと同様に、必要なことなのだと思つた講演会の夕べでありました。

機会があれば、三島由紀夫の読者の方々に、三島由紀夫の十代の詩を解いて、お伝へしたいものです。
(わたしの詩のブログ詩文楽にて三島由紀夫の十代の詩を論じましたので、ご興味ある方はお読み下さると嬉しい:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html

三島由紀夫は、楯の会の雑誌『尚史会』に「孤立のすすめ」といふ題の一文を寄せているといふことを、昨日初めて知りました。

この題名は、全く安部公房の精神に通じてをります。

二人ともに、反時代的な人間であつたのだと、改めてさう思ひます。ともに十代で読んだニーチェの作品の題名を思い出します。

安部公房は、三島由紀夫と会って、間違いなくニーチェの『反時代的な考察』と『人間的な、余りに人間的な』といふ作品の話を交はしたに違ひありません。何故ならば、死後三島由紀夫全集の月報に求められた書いたエツセイの題名が『反政治的な、余りに反政治的な』と題する文章であるからです。勿論安部公房が読みふけつて18歳の成城高校時代の校友誌『城』に発表した論文『問題下降に拠る肯定の批判』で自家薬籠中のものとした『ツァラツゥストラ』についてはいふまでもありません。

安部公房の読者であるあなたにも、三島由紀夫の作品に触れること、その言葉の遊戯の、言語の、しかし真剣なる言葉の遊びの本質に触れ味わふ喜びを、安部公房の世界と同様に、味わふことをお薦めする次第です。

わたしのやうな安部公房の読者が、三島由紀夫研究会に出席をして、三島由紀夫の読者と交流をするといふこともまた、戦後70年という此の節目の年の潮目なのであり、時代の大きな変化、潮流の変化を象徴してゐるのだと、さう思つてをります。

今年は、安部公房の世界にも、三島由紀夫の世界にも、何か大きな事件が起こることでありませう。








2 件のコメント:

  1. 岩田君、昨日の講演会の感想をありがとう。早速、このエントリーをSNSでシェアします。
    僕は『源泉の感情』という対談集は大好きですが、特に三島vs安部の対談が最高ですね。
    昨日は時間が足りなくて言及できなかったが、文化大革命への抗議声明を三島、川端、石川淳、安部の4人で出したことが非常に重要です。
    それだけ、三島さんと安部さんが芸術や言葉に対し、共通認識を持っていたことを表している。文化への政治主義の侵略に対する危機感を共有していたのです。
    そして、45年後の21世紀の今、ますます〈文化それ自体〉は危機に瀕しているのではないでしょうか?
    幸い、昨日の講演は好評で、主催者からも是非続きを、と言われているので、三島論執筆のスケジュールと関係なく、昨日の講演の続きを行ないたいと思っています。

    西村幸祐

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  2. やあ、西村、コメントどうもありがたう。すべて貴君のおつしゃる通りですよ。文化大革命にそれぞれの師匠と一緒に反対声明をだしたといふことは、大変に重要なことですね。それこそ、反時代的な考察と洞察の賜物です。1950年代を安部公房と苦楽を共にした周囲の左翼の作家たちも全くこの声明が何を意味するのかを理解できなかつた。さう、「三島さんと安部さんが芸術や言葉に対し、共通認識を持っていたことを」三島由紀夫の死後、安部公房は、三島君とは「言葉によつて存在する」といふこの考えを共有してゐたと明言してをります。また、「文化への政治主義の侵略に対する危機感を共有していた」といふ指摘も全くその通りです。安部公房は、三島由紀夫全集の月報に一文を寄せて、その題を「反政治的な、余りに反政治的な」として三島由紀夫が日本の文化を護らうとした姿を実に的確公平に安部公房の読者に伝えてをります。「ぼくらに共通していたのは、たぶん、文化の自己完結性に対する強い確信だったように思う。文化が文化以外の言葉で語られるのを聞くとき、彼はいつも感情的な拒絶反応を示した。しかもそうした拒絶反応が、しばしば三島擁護の口実に利用されたり、批判や攻撃の理由に使われたりしたのだから、ついには文化以外の場所でも武装せざるを得なくなったのも無理はない。(略)文化的政治論も、政治的文化論も、いずれも似たようなものである/反政治的な、あまりに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去にはなってくれそうにない」(1976/1/25)。この言葉を日本文学史の上に置くとき、この安部公房の言葉は、その前の言葉と存在についての引用をも併せて考えますと、言葉は言葉からしか生まれず、従い文藝は文藝からしか生まれない、これが文化の自立性・自律性であり独立性であると安部公房はいつてゐるのです。貴君の講演、本当に楽しかったし、知的な刺激にあふれてをりましたよ。西村らしいいい講演でした。次回も次々回も楽しみにしてをります。何しろ用意した原稿のうち2ページしか進んでゐないのだから。では、また、岩亭

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