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2013年3月30日土曜日

『安部公房の詩を読む1』を刊行しました


アマゾンのキンドルで『安部公房の詩を読む1』を刊行しました。お読み戴けると、幸いです。

http://goo.gl/2SSn4


I 内容

全くといってよいほど、詳細に読まれることのない、安部公房が10代から20代初期までに書いたふたつの詩集、『没我の地平』と『無名詩集』から3編の詩を選択して、その詩を読み解きました。

これらの詩集を読む為には、10代の安部公房が考え抜き20歳で書き上げた論文『詩と詩人(意識と無意識)』を読み、理解している必要があります。

この論文と、ふたつの詩集は、理論篇と実践篇の関係にあるからです。この本をお買い求めになる方には、別途上梓している『18歳、19歳、20歳の安部公房』も併せて、お読みになることをお薦め致します。一層深い、安部公房の理解を得ることができる筈です。

次の詩を、詳細に読解しております。

1。詩人(『没我の地平』)
2。理性の倦怠(『没我の地平』)
3。倦怠(『無名詩集』)

このように丁寧に、微に入り細を穿って、理論篇のいうところに従い、そうして同時に詩を読むとはどのようなことかを考えつつ、安部公房の詩を論じたものは、過去になかったと自負しております。

II 目次
目次は、次の通りです。

0。はじめに
1。詩を読むということ
2。「詩人」(『没我の地平』より)
3。「理性の倦怠」(『没我の地平』より)
4。「倦怠」(『無名詩集』より)

お読み下されば、幸いです。



http://goo.gl/2SSn4


[岩田英哉]

2013年3月25日月曜日

本日2013年3月25日朝日新聞朝刊に掲載の安部公房特集のウエッブ版


本日2013年3月25日朝日新聞朝刊に掲載の安部公房特集のウエッブ版です。もぐら通信も載っています。読者登録しなければならないのが、難です。

2013年3月21日木曜日

もぐら通信、朝日新聞に掲載される


もぐら通信、朝日新聞に掲載される


来週3月25日(月曜日)の朝日新聞の朝刊文化欄が、安部公房特集で、その記事の中に短行ではありますが、もぐら通信のことが掲載されるとの連絡が、朝日新聞社よりありました。

勿論、掲載内容がこれでよいかという確認のための電話でもありました。

是非、お近くの駅のスタンドにて、お買い求め下さい。

今後とも、もぐら通信を、よろしくお願い致します。

2013年3月20日水曜日

西脇順三郎と安部公房




西脇順三郎と安部公房

大阪の詩人、冨上芳秀さんから詩集を二冊戴いた。これについては、また紙を改めて書きたいと思うけれども、その一冊に葉書が入っていて、曰く、若い自分に安部公房の小説が好きで相当読んだ事、そして西脇順三郎の詩を後年読んで、それが何故かがわかったこと、その訳は、自分が言葉が好きだからだと知ったということが書かれてありました。

これを読んで、わたしはなるほどと思いました。

西脇順三郎は、芭蕉が好きでした。安部公房も芭蕉が好きでした。芭蕉は日本の誇る詩人の一人です。

この詩人は、俳諧という言語芸術の形式を定めた詩人です。

俳諧の精神とは何かと言えば、一行と次の一行に飛躍のあること、同じところに留まらないこと、そして、一行と次の一行でひとつのコンテクストを創造し、次の一行ともうひとつ次の一行で全く別のもうひとつのコンテクストを創造することです。

この意味において、西脇順三郎の詩は、俳諧に通じておりますし、安部公房の文体もまた俳諧に通じております。

つまり、文章を書く楽しさ、殊に詩を書く楽しさは、ここにあるということを冨上さんはおっしゃっているのです。

言語、言葉ということから、芭蕉を媒介にして、西脇順三郎と安部公房の関係を言って置きたいと思った次第です。

安部公房の好きだったピンク•フロイドの製作したショート•ムーヴィー。


安部公房の好きだったピンク•フロイドの製作したショート•ムーヴィー。

これをみると、安部公房という芸術家は、本当に真の芸術家だったのだと思います。

自由があるなあ。表現の。対極を含まない表現は、ゴミである。対極を含まない表現は、蛆虫である。と言っているかのようです。

題名が、waiting for wormsだというのがよい。待つということは、安部公房の生涯の態度でした。(これはリルケから学んだ。)そうして、便所と便器が好きだったことも。最後のショットにちらりと見えるようである。

http://www.youtube.com/watch?v=yD_vgqT_QPo

2013年3月16日土曜日

大菩薩峠と安部公房


大菩薩峠と安部公房

昨日Kindle Fire HDにて大菩薩峠を読んでいたら、カンガルー•ノートに出て来た賽の河原で歌われる和讃が歌われていました。

安部公房を、このような従来の文学の線の中に措いて、その文学の評価をするということは、存外大切なことではないでしょうか。

安部公房自身は、自分で言っている様に、自分の小説を多種多様な情報の宝庫、ひとつの地図に依ればこうもみえ、別の地図を頼りにすればああも見えるというように製作しています。

和讃という視点から、そして武芸者小説との関係で、安部公房の小説を読むとは、これ如何に。

安部公房のヒーローたちは、みなアンチ•ヒーローですから、陰画としてのヒーロー、甚だ格好の悪い主人公たちですが、この主人公達を武芸者、武士に見立てると、腰抜けの、甚だ滑稽な侍の姿に変じることでしょう。

そのように、安部公房の小説を読んでみることも、一興かも知れません。

2013年3月6日水曜日

何十年ぶりで初恋の人にあったかのような読書会

大谷大学の番場先生が、先日3月2日の関西安部公房オフ会(読書会)への参加の感想をブログに書いて下さいましたので、感謝を申し上げつつ、ここにそのURLアドレスを参照するものです。

http://otaniis.wordpress.com/2013/03/05/何十年ぶりで初恋の人にあったかのような読書会/

2013年3月1日金曜日

三島由紀夫の『愛の処刑』と安部公房


三島由紀夫の『愛の処刑』と安部公房

これは、男色者の小学校体育教師の恋愛とその割腹自殺による死を書いた小説である。

ここにあるのは、男の純情と純潔、無垢な恋愛感情である。

この恋愛は、年上の20代と思われる筋骨隆々たる若者と、小学生の美少年の恋である。

年端もゆかぬ、美少年の命令に服する感情は押さえ難く、それは絶対命令として主人公に働き、主人公は、恋情を覚えて、その対象としていた美少年の凝視する前で、切腹をして、快楽と苦痛の中に血を流すのである。

美少年は、まだ男になる前の、性的に未分化の状態の男子である。このことは、作者、三島由紀夫にとって、深い意味があったのだと思われる。

男と交わる、あるいは男の言葉に忠実に男が服従するということは、男の快楽の極地なのであろう。

それは、女性の言葉に従う男の感情とは、別天地の感情なのであろう。ましてや、男の言葉に従う、女の感情とも全くに異なった世界である。

『二十世紀の文学』で、三島由紀夫と安部公房が対談をしているが、開口一番、三島由紀夫が安部公房に、「性の問題だね、結局、二十世紀の文学は。」といって、性のことを口にするのは、相手の懐に深く踏み入る、三島由紀夫らしい洞察に満ちた導入部である。

何故ならば、安部公房もまた、三島由紀夫と同じく、性の未分化の状態である男と女をというものを理想の人間として念願し、それを主人公にして小説を書いて来た作家であるからだ。

この対談を読むと、安部公房と三島由紀夫は、心が互いに通じ合い、肝胆相照らす仲であるということがわかります。

2013年2月20日の安部ねりさんと加藤弘一さんのトークライブをレポートしてくれたホッタタカシさんの文章「安部公房に缶切りを!ー安部ねり&加藤弘一トークライブ報告」によれば、安部ねりさんの言として、「本当にウマの合った二人だった」とその「幸福な交友関係」に触れているというのも、むべなるかな。

見かけ上は、左翼と右翼のように見られているふたりですが、人間というものはそのような皮相なものではありません。

同じレポートによれば、安部ねりさん曰く、「安部公房の友達は右翼が多かったな」とのことは、わたしには、如何にも安部公房らしいと思われるのです。

追記:

更に詳細に、二人の未分化の性を論じ、アマゾンにてキンドル本として出版しました。

http://goo.gl/qa97S3