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2012年11月21日水曜日

奥野健男著「素顔の作家達 現代作家132人」の中の安部公房



奥野健男著「素顔の作家達 現代作家132人」の中の安部公房

先だって、横浜に行く用事があり、ひとと待ち合わせをして時間よりも少し早く到着したので、その界隈を散策がてら見物していると、一軒の古本屋を見つけた。

ワゴンセールスで十把ひとからげの本の中に、奥野健男の「素顔の作家達」という本があり、副題が現代作家132人とある。版元は集英社。定価は1800円。1978年の初版である。

当時の安部公房についての記述があるので、面白いと思ったところを抜き出してみたいと思います。

安部公房を当時の、戦後の様々な思潮や流派とは全く関係のない作家3人のひとりに、その名前を上げています。ひとりは三島由紀夫、もうひとりは、斯波四郎、そして、安部公房です。

「彼は昭和二十三年に真善美社のアプレゲール叢書の一冊として「終りし道の標べに」を出版している。このアプレゲール叢書は野間宏の「暗い絵」や中村真一郎の「死の影の下に」などを出したいわば第一次戦後派の牙城であった。」

「そして安部は『綜合文化』という当時極めて新鮮で魅力的だった前衛藝術の雑誌で、佐々木基一、花田清輝などと大活躍をしていた。だからぼくたちは、安部公房は野間や花田などと同年輩の作家だというような印象を何となく抱いてしまったのだ。

 ところが安部公房は大正十三年生(1924年)生まれで、もう四十を過ぎた第一次戦後派どころか、昭和二十七年、八年頃登場した第三の新人よりも若い。つまり、ぼくよりふたつ年上なだけである。とすると安部は、ぼくや三島由紀夫、吉本隆明、井上光晴、北杜夫などと同じ、戦争世代の一員であるわけだ。けれど安部の作品や評論には、戦争や敗戦の挫折を原体験にして、そこから熱っぽく戦争体験論を展開するという、戦争世代特有の発想は殆どみられない。彼はそういうものを、巧みにすり抜けて、世代から超越した一般者、普遍者として、発言している。」

「その頃工業大学の学生であたぼくたちは、文芸部の後援会兼座談会に、安部公房氏と堀田善衛氏とを呼んだ。堀田さんは例の口べたな調子でボソボソつぶやくだけで殆どしゃべらなかったが、安部さんは猛烈な早口で、次から次へと論点を飛躍させながら、宇宙の森羅万象にちて尽きることなくしゃべりまくった。ぼくたちはそのエネルギーと、いかなる教養体系によって得たか知れない、がいはく(4文字傍点)で珍奇な知識にすっかり毒気を抜かれ、圧倒されてしまった。そこで隣りで聞いていた吉本隆明としめし合わせ、「芥川賞の銀時計はどうしましたか」などと、いささか水をかける体の質問をしてみた。すると安部さんは急に照れ臭そうな顔をして、「なくしてしまったよ」と答え、芥川賞受賞を知った時のエピソードを話した。
それは旅先の旅館で夢を見ていると、ラジオが、芥川賞は安部公房氏に決まったと放送している。目がさめて芥川賞なんて日頃考えてもいなかったのにそんな夢を見るとは我ながら情けない、そんな願望が心の中に潜んでいたのかと苦笑していると、それは夢ではなく、隣りのラジオがほんとに放送していたのだというような話だった。彼独特のつくり話かも知れないが、戦後派作家たちが芥川賞など問題にせず、もらうことをむしろ不名誉なような、照れ臭いような感じを持っていた、その頃の雰囲気をよくあらわしている。実際そのくらい安部さんと芥川賞は似つかわしくない取合せだった。」

「昨今安部とは、しばしば会い、飲み、語る機会が多い。人間的に彼は大きくて柔らかく、成長した。あたたかく、親切でよく気がつく、たのしい友人である。けれどもぼくは、時々、彼の隠された内面の孤独に、敢えて残している荒涼たる砂漠をそのものやわらかい言動のかげに見出だす。安部公房は世界の現代文学の最先端を行く文学者である。

 ぼくは傑作の戯曲「友達」を、青年座文芸部長として数年間粘り、ついに書いてもらったことを自慢にしている。この現代のあらゆる共同体の虚偽をあばいた戯曲は、日本共産党、新興宗教、組合、学校のクラブさらには労演まで主観的善意の組織を批判していた。
それだけではくソ連はこれをアメリカのベトナム戦争の風刺と受けとりモスクワで公演の予定だったが、その夏、チェコに対する社会主義兄弟国の戦車による進攻というまさに「友達」的事態が起り、今度はチェコがソ連への痛烈な風刺として上演を計画した。国際作家安部の面目と先見性の躍如たるものがあるが、それだけに安部は国内においては孤立せざるを得ない。最近の文学や言語を否定した上の空間や音楽や写真を通じての新しい文学への模索は、誰にも理解されない、しかし栄光にみちた冒険の道である。」



[岩田英哉]

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