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2012年10月21日日曜日

「安部公房 小説を生む発想 「箱男」について」(カセットテープ全4巻。約1時間) を聴く。



「安部公房 小説を生む発想 「箱男」について」(カセットテープ全4巻。約1時間) を視聴する。


冒頭に、ブラックジャックという凶器の話をして仮説とはどのようなものかの話をする。そのような凶器をつくると、応用範囲が広い。女の人が自分の亭主を殺すときに役に立つ。殺した後に赤ん坊の傍にそっと凶器を置いておくと警察も疑わない。完全犯罪にとってもよい凶器。これを使っても、発見されない。だから、保険のセールスをやっている方には応用範囲が広い。実は、自分は過去にやっていたことがあると言おうと思った。といって、心配させ、驚かせてやろうと思っていた。

安部公房は、これは仮説なんだと何度もいいながら、いや話そうかな、話すと仮説だから実につまらないんだと何度もいいながら、話を始める。
(この語り口そのものが、安部公房の物語の語り口。これは仮説だ、しかし、仮説だと思わないで聞いて欲しいという安部公房の言葉。)

この話をしたのは、小説を書くのには、テーマが先にあるわけではないということを伝えるためにしようと思った。

箱男の、乞食の話をたねにして、ものごとを発想する手順について語り始める。
(上野公園の乞食の取り締りを取材にいった話をし、そうして警察署の廊下にひとりだけ箱を被ったままの乞食がいる話をして、いつのまにか聞き手は安部公房の世界に引き入れられてしまいます。
警察署の廊下に箱を被った乞食がひとりだけいたというところは、そうして安部公房が箱男をみると、向こうもビニールの幕を一寸体をかしげて開け、僕の方をみるのだ、そうするともう実に惨めな気持ちになって、負けてしまうという話も、もう安部公房の創作なのだと思いますし、そう考えれば、安部公房が上野公園に住む乞食の取り締りを取材にいったかどうかも怪しくなります。安部公房の文学は仮説設定の文学です。)
しかし、それはそれでいいのです。問題は、このような巧みな語り口が、仮説設定の上で成り立っているということです。これが安部公房の文学の特徴のひとつだと思います。
乞食=登録されない世界。世間に対して義務も権利も放棄した。登録されないもの=偽者。贋医者。
箱男=箱を被る=匿名性、だれでもない=あらゆる人間でありえる。世間からみるとゆるし難い。
小説を書く為に、感覚的にある領域にあるものに集中する。テーマが先に、プロットが先にあるのではない。
(安部公房にとって、作品を書くということは、自分自身を想い出すことであった。自分自身を知る事。)
親=子供は親に反逆する。親は子供に悪いから親は虐殺すべきだ、というと、親は嫌な気持ちがする。子供には、親が死んだらほっとするという感覚が必ずある。
民主主義は、市民の匿名性の上になりたっている。身分や財産で区別されない個人でなりたっている。そのひとがだれででもあり得る。誰でもなく、且つ誰でもあり得る。=箱男。その姿は、民主主義の原理として、夢として、みながどこかに抱いている姿。登録を拒否して、偽者になってしまうという姿。
民主主義を突き詰めて考えると、国家に行き当たらざるを得ない。

映画の脚本は、小説の作り方と逆。最初に骨組みを作る。骨の上に肉付けして行く。不可解なものがない。
ひとのこころを打つとしたらそれは、整理されたテーマ以前のこと。(傍点筆者)
人間というものは、完全に満たされた、充足した独房、完全に欠乏した自由というのがあって、どちらを選ぶかと言えば、後者を選ぶのではないか。前者は、あらゆる時間を予測し得るということ。予測可能なところに自分をおきたいという願望がある。それから脱出したいと思ってもいる。そのせめぎ合いが人間。
予測を拒否すると、自殺するという場合があり得る。


文学作品とは何かといえば、「自分自身の日常生活から起きうる予測可能な領域、これに更に深いメスを入れて、ある意味で分かっていたはずの未来をさまざまに変形したり、違う可能性をそこに与えてみたり、実は自分自身を予測不可能な状態に追い込む効能が文学に求められている。」それが、占いと対照的な機能として、文学に求められている。
欠乏した自由に身を置くということが、文学、藝術一般に対する願望といえる。欠乏した自由に読者を追い込むという文学もある。人間を不安に陥れる、欠乏した自由に人間を追いやる。これは、文学の本質。それ自身では役に立たない筈の文学の存在理由は、そこにある。
存在するいろいろな機能の中で、未来を予測可能という形で働いているものが多々ある。自然科学。自然科学は、予測、因果関係、必然で説明をする。安定させる方向に人間を持っている。他方、文学は、その反対の働きをする。

芝居の読者と小説の読者の分裂。わたしの読者にみてもらえる芝居をつくりたい、ふたつの読者が一致する芝居をつくりたい。観に来て欲しい。そういう質の高い芝居をつくりたい。これは、切実な願望。他の芝居は観なくても言い。芝居一般を好きになってほしくない、それは僕の芝居の読者ではない。僕の芝居だけを観て欲しい。

[岩田英哉]









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