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2014年11月15日土曜日

岡山典弘著『三島由紀夫外伝』を読む:三島由紀夫が安部公房と共有した19の主題、又は『安部公房外伝』


岡山典弘著『三島由紀夫外伝』を読む:三島由紀夫が安部公房と共有した19の主題、又は『安部公房外伝』

彩流社から、もぐら通信にご寄稿を戴き、安部公房と三島由紀夫について私たちに伝えて下さっている岡山典弘さんの最新刊『三島由紀夫外伝』が刊行されました。

この著書の中から、安部公房を中心に、三島由紀夫と安部公房の共通したところを引用して、言葉を付し、岡山さんの同著ご恵贈へのお礼に、以って、替えたいと思います。

外伝という言葉は、正伝に対する言葉ですから、後者が正統な伝記という意味であれば、前者は後者から零(こぼ)れ落ちた数々の逸話を集めたもの、集めてそれによってその人物の全体像を読者に伝えようとするものということになります。そうして、この外伝は、確かにそのような作品になっております。

正統の網の目から零れ落ちた数々のものにこそ、その人間の真実があるという考えが、外伝を書くということにある考えなのです。

正統が、いつもその人間を一次元の狭い世界の中に閉じ込めがちであるのに対して、外伝とは、その人間をその多面性のままに読者に伝えようとする意志であると言っても、同じです。

この著者が縫い取って行く数多くの三島由紀夫についての逸話の中から、安部公房と共有している逸話の主題を掲げて、安部公房と対比をしてみたいと思います。このこころみは、このまま、安部公房外伝を書く、素描するということになります。思いがけない、通俗的な、世間に流布しているような安部公房像ではない安部公房の発見がある筈です。

最後まで書いてみて、改めて思いますと、近い将来書こうと思っていた『安部公房と三島由紀夫』のための、実に簡潔な主題の一覧を作成するができたことに気付きました。岡山さんに感謝申し上げます。

以下、各共通項目の題名の後に、最初に同著の本文を引用し、その次に安部公房のことを述べたいと思います。


1。剣道
「真剣でならやってもいいよ」
 これが、”同業者”から挑戦されたときの三島の返答であった。

 いつだったか三島君に剣道の試合を申し入れたことがある。たしか彼が剣道四段(あるいは五段だったかもしれない)の試験に合格した時のことだ。
 ぼくの申し入れに対して三島君は、真剣でやってもいいよ、とこともなげに答えた。それから一瞬おいて、例のはじけるような高笑いがつづく。
             (安部公房「反政治的な、あまりに反政治的な」)
(同書、26ページ)


これは、『反政治的な、あまりに反政治的な』(安部公房全集第25巻、374ページ)からの引用です。

安部公房も剣道の心得があり、強かった。それで、このようなことを三島由紀夫に言ったのです。

誰の書いたものであったか、中学校か高校時代の同級生が、安部公房は警察の剣道をならっていて、道場で剣を合わせたら、負けた後にも組打ちをしてきて、ねじ伏せるようにして体をぶつけて組み伏せられるほどに攻撃的な剣道であったので驚いたし、恐怖を感じたという体験を書いてます。今この文章の出典が見つかりません。後日を期して引用元を明記します。

さて、1976年の、三島由紀夫の死後6年を経て書いたこのエッセイの中で、安部公房は、自分と三島由紀夫の共有していたというものは「文化の自己完結性に対する強い確信」だと言っています。

この言葉を読むと、安部公房が、三島由紀夫を自己の鏡像、姿見に映る自分の姿、自分の影、即ち安部公房の19歳で書いた『〈今僕はこうやって〉』で開眼した思考論理に則って、三島由紀夫を自己の客体だと考えていたことがわかります。

この考え方は、読者とは何かについて語る安部公房のいる、ふたりの対談『二十世紀の文学』(第20巻、82ページ上段)でも知ることができます。この対談では、三島由紀夫は、俺は混沌は嫌だといい、対する安部公房は、それが客体なのだといって、自己を投影する客体の元たる自己も混沌であること、無意識は自己でも制御(コントロール)できないことを言って、二人の対話は進み、読者の眼にも楽しく続いて、終わることがありませんでした。この対談を読むことは実に楽しい。

さて、同様に、安部公房曰くすべての接点を共有していたが、その接点において方向が正反対のふたりである(「彼との接点は、全部うらがえしになっている」全集第29巻、73ページ下段)という同じ思いが、この『反政治的な、あまりに反政治的な』というエッセイを書かせたのです。

確かに、10代で安部公房がリルケに学んで詩の世界を創造したとき以来、その鏡の世界である作品には、時間は存在しませんでした。そして、そのような小説を書きました。

「反政治的な、余りに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去になってくれそうにない。」と、書いているこころが偲ばれます。

この最後の言葉を読むと、これは安部公房流の、三島由紀夫に対する、同じ言語藝術家としての鎮魂の言葉であることがわかります。

全集第23巻の贋月報第23号に、堤清二が次のように語っています。

「安部さんは三島さんのことはファシストだとは言わなかった。絶対。三島由紀夫が死んだときに、僕はその前後の事情をある程度知っていたから、彼はもう非常な関心を持って聞きましたね。三島さんがどういうぐあいだったかとか、君はなぜ死んだと思うかとかね。僕が、お通夜での話とかいろいろすると、非常に納得したり、もっと聞きたがったりで、その時に彼は三島由紀夫の才能はかっていたんだなあと思いましたね。で、おかしいのは三島さんの方もかっているんだよね。」


2。岸田今日子
岸田今日子は、三島由紀夫の戯曲『サロメ』で主演を演じました(同書、54ページ)。

安部公房にご縁のあるのは、この女優が、日本の演劇史に名を残す岸田國士という戯曲家であり演出家であった方の娘であることです。

この父親の創刊した『悲劇喜劇』という演劇の月刊誌は、今も早川書房から出ています。

また、この雑誌の1974年10月号(第288号)は、安部公房特集を組んでいて、勅使河原宏が『夢』というエッセイを書き、妻の安部真知は『「愛の眼鏡は色ガラス」』を書いており、安部公房スタジオの女優たち、山口果林は『鏡抜け』を、条文子は『周辺蛇行』という文章をそれぞれ寄稿しています。

この父親の演劇家としてのこの雑誌の創刊にかける思いが、その創刊号(1928年(昭和3年))に述べられています。普通の読者には目に触れる機会がないでしょうから、ここに引用して、お伝えします。

「私は此の雑誌で、読者と共に、もう一度、芝居といふものを観直してみよ うと思ふ。これまでの演劇雑誌は、有為な編輯者の個性を通して、それぞれ 異つた特色を具へ、それによつて、充分、その時代を益し、読者を満足させ たには相違ないが、前にも述べた如く、雑誌といふものゝ性質を尊重した結 果が、殆ど例外なく、「演劇の流れ」の中に在つて、それを上下してゐたや うに思はれる。これは、空想の演劇をして実在の演劇と共に自滅せしめる危 険を伴ふことになる。私はあくまでも、演劇雑誌といふ約束に囚はれず、「流 れ」の外にあつて、演劇の相を観きわめたいと思ふ。 従つて、「悲劇喜劇」は、一面、研究的であり、また、啓発的であるかも 知れないが、それ以上に、趣味的であり、親和的であることを努めるつもり である。 これは決して、一般向をねらつて、売行を多くするためではない。それど ころか、私一個の考へでは、さうすることによつて、読者の範囲は一層限ら れるだらうと思つてゐる。これは止むを得ない。せめて、確実な読者を、あ る数だけ維持することができれば、それで満足しなければなるまい。長谷川 君の意向で、雑誌は市場に出さず、直接購読者を募ることにした。 」


このような父親の子供が、岸田今日子という女優です。

安部公房原作、勅使河原宏監督の『砂の女』の主演女優であることは、言うまでもないでしょう。


岸田今日子は、三島由紀夫と安部公房というふたりの優れた作家にご縁のある女優ということになります。

『三島由紀夫外伝』によれば、この女優と三島由紀夫は、「二人が軽井沢で一夜を過ごした挿話は、猪瀬直樹の『ペルソナ』(文藝春秋)に詳しいが、一時期、三島は今日子に思し召しがあった」ということです。


3。賽の河原や和讃
三島由紀夫は、中央公論社の文学新人賞の選考委員を、伊藤整、武田泰淳とともに務めておりました(同書、59ページ)。

昭和31年(1956年)に、深沢七郎の『楢山節考』が選ばれます。

この作品に対する三島由紀夫の感想は、

「何か怖いというか『説経節』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」と、その読後感を編集者の京谷秀夫に伝えています。

このとき、三島由紀夫は、31歳。

これに対して、安部公房は、1991年、67歳のときに『カンガルー・ノート』という小説を書き、日本人の土俗的な、民俗的な歌謡を、深層心理に踏み込んだこの小説の第3章「火焔河原」で、賽の河原に集まり歌う小鬼としての子供たちを登場させ、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のためと言う有名な和讃、御詠歌を歌わせています。

この情景も歌も暗いものですが、しかし、安部公房らしい悲哀と、何か突き抜けたような明るさが宿っているように感じます。

この『カンガルー・ノート』は、やはりお大師さま、即ち弘法大師の国、香川の国の血を引く安部公房に、やはり抗し難く、その力が働いて、安部公房もそれを受け入れた、記念すべき作品です。


4。超常現象
「三島は、狐狗狸や降霊術などのオカルト・超常現象にも関心を寄せた。UFO研究もこの一環であるとともに、いくばくかの救世主願望があったのかもしれない。」と著者は書いています(同書、71ページ)。

また、

「三島は、昭和三十一年七月の円盤観測会に参加して、双眼鏡を熱心にのぞきこみ、東京の空に円盤を探した。」とのことです。

「これからいよいよ夏、空飛ぶ円盤のシーズンです。去年の夏は、熱海ホテルへ双眼鏡をもつて行つて、毎夜毎夜、いはゆるUFOが着陸しないものかと、心待ちにのぞいてゐましたが、つひに目撃の機会を得ませんでした。」(三島由紀夫『現代生活の詩』)(同書、72ページ)

このとき三島由紀夫、31歳。

三島由紀夫と同様に、安部公房は安部公房で超常現象には関心を持ち、最晩年の『飛ぶ男』では、透明人間と飛ぶ男を登場させています。この主題そのものは、若い時代からの主題であって、小説家としては、表立っては芥川賞受賞作『壁』所収の「バベルの塔の狸」以来変わらぬ主題であり、その根底にある安部公房の意識の在り方と思想については、繰り返し『もぐら通信』と「安部公房の広場」で論じて来た通りです。

超常現象の最たるものは、人間の変形ですが、何故安部公房がそのような超常現象ばかりを描いたのかは、ここでは敢えて詳述をせず、安部公房の文学の3つの座標軸、即ちエドガー・アラン・ポー、フリードリヒ・ニーチェ、そしてライナー・マリーア・リルケの名前を挙げておくことにします。


5。宇宙人
昭和30年(1955年)にUFO研究者が「日本空飛ぶ円盤研究会」を発足させた。

三島由紀夫は、会員番号12番で、この会の会員になった(同書、71ページ)。このとき三島由紀夫、30歳。

三島由紀夫には、『美しい星』という SF小説がある。ある家族全員がそれぞれ別の星、火星や水星や木星やらから来た異星人であることを書いた小説です。最後に宇宙船の円盤が地球に着陸していて、この家族を迎えるという結末になっています。

この小説書いたときの三島由紀夫は、1962年、37歳。

安部公房は、この年、共産党員であった10年間を前年の1961年9月6日に共産党に除名をされて終わりになっての翌年で、『砂の女』(全集第16巻、115ページ)を上梓している。安部公房は、38歳。

三島由紀夫の『美しい星』も、水爆による地球の滅亡を前提にして働く、主人公大杉重一郎とその家族たちの物語でありますから、やはり、これは、安部公房と同じく、終末思想と方舟思想についての小説として読むことができます。この家族は、宇宙船という方舟に乗って、地球から脱出するわけです。

これに対して、安部公房は、1984年に『方舟さくら丸』を書いて、終末思想と方舟思想の批判をしております。この小説が、空へ宇宙へと方舟が飛ぶのではなく、地中へ、地下の大空洞にある方舟であるということが、安部公房のこの二つの思想への強烈な批判と否定を表しています。

この終末思想と方舟思想批判は、日本共産党員であった苦い経験と反省から生まれた批判です。来年(2015年)1月号のもぐら通信(第29号)に書く『安部公房と共産主義』で、詳細を論じます。

さて、安部公房の小説は、どれもこれもSFと言ってよいものですが、しかし宇宙人と円盤という主題に絞れば、1958年に『使者』(全集9巻、295ページ)という小説と『円盤きたる』というラジオドラマ(全集第9巻、313ページ)を書いています。

こうしてみると、三島由紀夫と安部公房は、やはり言葉の質(quality)が、従いそもそもの発想が、前者が陽画ならば、後者は陰画というように、正反対であることがわかります。

安部公房曰く、「彼との接点は、全部うらがえしになっている」(全集第29巻、73ページ下段)

最後に、安部公房が『美しい星』の批評文を書いていることを挙げて、この章の終わりとします。

それは、『三島由紀夫著『美しい星』』と題したものです(全集第17巻、37ページ)。その冒頭でいきなり、安部公房は自分の小説、即ち仮説設定の文学の本質に触れる発言をしています。

「わたしははじめ、これを一種のバロック小説として読みはじめたものだ。」

このバロック小説という小説の様式は、実は安部公房の小説の様式であるのです。この論の詳述は後日としておいて、このときこのバロック小説という言葉が出てきたことから言って、安部公房は17世紀のスペインの小説『ドン・キホーテ』を思い出していたに違いありません。

この発言は、そのまま自分の小説への自註となっております。

さて、ここで指摘しているこの小説の特質のひとつを、安部公房は、美、美しさにあるということを見抜いて、この批評文の最初にこう書くのです。

「空飛ぶ円盤や、宇宙人が登場してきたりするが、むろん空想科学小説などではない。かといって、そのパロディでもない。数ページも読みすすめば、円盤がじつは美の象徴であり、宇宙人がその啓示の意味を自覚し、理解したもののことであることが、すぐにあきらかになる。」

安部公房も、三島由紀夫と同様に、散文の美を真剣に考えた作家です。『密会』刊行後の『裏からみたユートピア』(全集第25巻、503ページ)というインタビューに答えて、このインタビューの最後の節「逆転した寓話」で、安部公房は次のようにこの『密会』の愛と殺意と弱者•強者の関係を解説しています。

「この小説のエピグラフとして僕は、「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」という 言葉を置いたけれども、それが最後には裏返されて「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という感じに逆転していった。「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」 と言っている立ち場と、小説を書いている僕の立ち場とは、ちょうど裏表なんだな。書きながら 感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたということになる。ある意 味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いた とも言える。」(下線部筆者)

この「僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたということになる。ある意味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いたとも言える」という発言に、陰画師としての安部公房がおります。

これに対すれば、三島由紀夫は、陽画師です。その言葉の修辞がどんなに華麗であっても、その性格は実に素直で、真っ直ぐです。これに対して、安部公房のものの見方は、既に諸所でお伝えしているように、

「僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いた」と 言っているこの論理は、10代の安部公房の詩を解析したときに指摘した安部公房の顕著に特徴的な思考論理、即ち「安部公房は対象の周囲、周辺に着目するので す。対象以外のものに眼をやるのです。そうしておいて、その対象を、周囲にある物ではないものとして陰画で見るのです。」

という思考論理なのです。

それ故に、このふたりの言語藝術家は、これほどまでに対照的であり、対称的であったのであり、気心が、論理の世界でも、心情の世界でも通じた稀有な、陰陽の親友同士であったのです。


6。都市
「そうだ。私が連れて行かれたのは、ふしぎな一個の都市であった。どこの国の地図にもなく、おそろしく静かで、白昼の広場で死とエロスがほしいままに戯れてゐるやうな都市。」(三島由紀夫『細江英公序説』)(同書、76ページ)

細江英公は、三島由紀夫の裸体写真『薔薇刑』を撮影した有名な写真家です。

この写真は、「「薔薇をもって罪を贖う」という主題を映像化した藝術作品である」とのことです。

この写真集は、昭和38年(1963年)の刊行。三島由紀夫38歳。安部公房は39歳。

引用した三島由紀夫の言葉にある「どこの国の地図にもなく、おそろしく静かで、白昼の広場で死とエロスがほしいままに戯れてゐるやうな都市」は、そのまま「どこの国の地図にもなく、おそろしく静かで、夜の広場で死とエロスがほしいままに戯れてゐるやうな都市」と言い換えれば、そのまま安部公房の世界になります。

ここでも、昼と夜が反転している。論理と感性の違いです。勿論、このあらゆる、相違する接点を、ふたりは共有しておりました。

「燃えつきた地図」の世界を思えば、安部公房の読者には、三島由紀夫の言葉を理解するには十分ではないでしょうか。

また、三島由紀夫と安部公房の共通項に、ニーチェとリルケがあります。

「薔薇をもって罪を贖う」とあるこの薔薇は、安部公房であるならば、リルケの終生愛した薔薇であることを理解できることでしょう。リルケの薔薇は、一個の宇宙であって、リルケの認識した宇宙の構造を備えた、しかも花であるといことから、美しい宇宙の形象であるのです。

『無名詩集』の扉に、

「私の真理を害ふのは常に名前だった
        —-読人不知--」

と記(しる)した23歳の安部公房のこころは、この三島由紀夫の裸体写真への自註を十分に理解したことでしょう。

何故ならば、平家物語を読めば、源氏に敗れて朝廷に刃向かった朝敵となり、罪人となった平家の薩摩守忠度が都落ちをするに当たり、歌道をよくしたこの文化的な武人は、藤原俊成を訪ねてみづからの和歌のすべてを俊成に預けて、もし天皇の命によって勅撰和歌集を編むことがあれば、そして自分の歌によいと思うものが真にあれば採用してもらいたいと言って、京を落ち延びて西国へと向かうのです。

俊成は、忠度の歌を採用し、朝敵でありますから名前を示すことができずに、『千載和歌集』では、読人知らずとして採ったことでした。これが、平家物語がわたしたちに教える、読人不知というこの言葉の深い意味のひとつです。読人不知は、また罪人でもあるのです。

芥川賞受賞作『壁』所収の『S・カルマ氏の犯罪』の主人公が何故罪に問われ、得体の知れない組織に追跡されて、到頭裁判に掛けられ有罪になって、その次元を脱して、遂には壁になってしまうのか。既に10代の詩の中に、その淵源があったということ、学んだリルケの世界にその淵源があったということなのです。勿論、「概念から生への没落」を学んだニーチェの『ツァラトゥストラ』のことも大いに預かって、この言葉の選択には、力があると思います。

わたしたち日本人が、詠み人知らずというときには、どこかしらいつも、無名ということからも尚一層、罪の意識と無縁ではいられないというのが、人間のこころの不思議です。


7。エロチシズム
「二十世紀の精神界のもつとも中核的な問題は、エロチシズムかもしれない。」(三島由紀夫『エロチシズム』)(同書、82ページ)

この三島由紀夫の発言は、そのままふたりの対談『二十世紀の文学』の冒頭の発言、

「三島 性の問題だね、結局二十世紀の文学は。」(第20巻、55ページ)

と言って、対談を始める三島由紀夫につながっております。

これは、 『エロチシズム』を書いたときと同じころの対談なのでしょう。

対談は、1966年、安部公房42歳、三島由紀夫41歳です。

三島由紀夫も死と性愛(エロス)の作家ですが、安部公房も負けず劣らずに、死と性愛の作家です。

安部公房の場合には、いつも成熟した女と、そして性未分化の状態にある、安部公房好みの、敢えて言えば未分化の実存にいる偏奇な少女の形象をとって、作品の中に繰り返し登場します。

死について言えば、いつも話しの結末は、主人公がその閉鎖空間を脱出することと引き換えに、死ぬという気配が濃厚であり、そのことを象徴的に表す以外にはないので、安部公房の主人公はいつも失踪します。

そうして、「1。剣道」で引用した『反政治的な、あまりに反政治的な』という安部公房の、三島由紀夫に対する鎮魂の散文の題名は、ニーチェの『人間的な、余りに人間的な』という論考の、言葉の厳密な意義での、パロティーであるのです。ふたりは恐らく、ニーチェについて語り合ったのでしょう。この短文の題名は、そのことを示しています。


8。引き籠り
「川端さんのノーベル賞受賞後、今までとは違う三島の姿を感じたことも、やはり事実だ。自分自身に閉じこもり、日本の中に引きこもってゆくように見えたのである。」(E・G・サイデンステッカー『流れゆく日々』)(同書、83ページ)

川端康成のノーベル賞受賞は、1968年(昭和43年)。三島由紀夫43歳。

仄聞するところによれば、川端康成は三島由紀夫に対し、自分のノーベル賞委員会の推薦状を書かせたとのことであり、川端康成の奥さんは、夫のノーベル賞受賞を祈願して、鎌倉のあるお寺にお百度詣りをしたということです。他方、三島由紀夫自身が、ノーベル賞の候補に名前の挙がる作家であった。こころの中の葛藤を想像することができます。「三島は、三十八歳の若さでノーベル文学賞の有力候補であった。」(同書、83ページ)

三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊の駐屯地で切腹するのは、川端康成の受賞の2年後です。

他方、安部公房の引き籠りは、1970年の三島由紀夫の死のあと、10年を経て、特に安部公房スタジオが解散してから、1980年に入ってから始まります。箱根の仕事場に引き籠って、仕事をするようになります。安部公房56歳からということになります。


9。共産主義
「中共では十ヶ月で一千万以上の人が虐殺された。一千万といへば、この東京都の人口だ。それだけの人数が、原爆や水爆のためぢやなくて、一人一人同胞の手で殺されたのだ。それが共産革命といふものの実態です。それが革命といふものなんです。こんなことがわれわれの日本に起こつていいいと思ひますか。」(三島由紀夫『喜びの琴』)(同書、87ページ)


安部公房は、全く同じことを、三島由紀夫と全く逆の論理で次のように言っている。

ナンシー・S・ハーディンとのインタビュー、『安部公房との対話』(全集第24巻、478ページ下段)で、安部公房は次のように、『第四間氷期』と革命について述べて言います。これは、結局、埴谷雄高の至った「存在の革命」と同じことを、安部公房は言っているのです。それを「内部の対話を誘発すること」と言っております。下線部は筆者。

「 ---まだ話題にしていない小説のひとつに『第四間氷期』があります。あとがきのなかで、この小説の目的のひとつは「読者に、未来の残酷さとの対決をせまり、苦悩と緊張をよびさまし、内部の対話を誘発すること」(『第四間氷期』二七二頁)だと書かれていますが。
 安部 ひとことだけ説明します。ぼくは革命というものに決して反対ではありません。しかし、強調しておきたいのは、革命ではそれを望む人々が逆に殺され傷つけられたりすることが少なくないということです。革命家が自覚して己の幸福のためよりもむしろ革命のために進んで苦しんでいるならば、自分の命を賭ける自信や、革命で殺されてもよいと信じる意志がないならば、革命など起こせません。反対に、もしそれほどの強い意志があるならば、当然起こすべきです。それが『第四間氷期』のテーマです。」

この論理は、共産主義革命についての、三島由紀夫の陽画の論理とは全く逆の、陰画の論理ですが、「中共では十ヶ月で一千万以上の人が虐殺された。一千万といへば、この東京都の人口だ。それだけの人数が、原爆や水爆のためぢやなくて、一人一人同胞の手で殺されたのだ。それが共産革命といふものの実態です。それが革命といふものなんです。」という三島由紀夫と同じことを、安部公房らしく、対象そのものに光を当てるのではなく、対象以外のことに眼をやって、それらを否定してから、共産主義という対象を陰画で批判する安部公房がおります。

また言えば、三島由紀夫は国家の安全保障の問題を論じているのに対して、安部公房は、個人の安全保障の無さの在り方を論じているのです。全く、ここでも、両極端な二人です。

この個人の安全保障の無さの在り方のことを、安部公房スタジオの俳優たちには、演技概念としてニュートラルという名前を付けて教えました。この概念もまた、10代の安部公房の詩の世界にある、安部公房の思考論理と感性(生理感覚)には、親しい概念なのです。

このニュートラルと呼んだ演技の基本概念を、10代の安部公房は、未分化の実存と呼びました。この二つの言葉は、同じ概念なのです。


10。藝術の毒
「芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。」(三島由紀夫『文学座の諸君への『公開質問状』』)(同書、88ページ)


この三島由紀夫の言葉も全くその通りです。

読者は、上澄みだけの甘い水を飲みたいと願い、その上澄みの下に淀んでいる泥を啜ろうとはしませんし、あるとも気づかない。何故ならば、そのような読者は、誰にでもいい子いい子したい、可愛がられたいという人間の心理にやられているからだと、三島由紀夫は言い当てているのです。

それが舞台俳優の場合でも同じだと、藝術と人間の問題として、三島由紀夫はいうのです。

その好例として、著者は、北川和夫という役者の格好の逸話を示しています。

「「僕の役の反共的な科白は、僕にはしゃべれません。役者としてこの役は、どうしても、やれません」
 北村和夫が、文学座臨時総会で泣きながら訴えた。」

普通には、このようなことを言う役者は役者と呼ぶに値しない役者ということになるでしょう。現実を生きることが実際にそうであるように、芝居もまたIdeologieで演じるものではないからです。

安部公房の場合には、この同じことを、今この文章を書いていて例示できるものとして思い出すのは、安部公房が詩人から小説家になるためにはどうしたらよいかを書いた『牧神の笛』という重要なエッセイです。

このエッセイでは、10代であれほど耽溺し、惚れ込んで読み抜いたリルケという、美しい詩を書いた詩人が、どんなに冷酷で、酷薄で、人非人の人間であったかに気づいて、怒り、いきどおりを覚えて苦しむ安部公房がいます。今までの自分の詩は何だったのかと問い、苦しんだのです。そんな人非人の人間の書いたものを信用していいのか。藝術とは何か、作品を書くとは何か、このようなことを真剣に、苦しんで問う安部公房がおります。

このエッセイの最後に、如何にも詩人安部公房らしく隠喩(metaphor)を使って、リルケを受け容れて、小説家(散文家)として生きる覚悟を、次のように言って、このエッセイを締めくくっています。

「結局、ぼくのいきどおりも、その凍りはて裏がえったフォーン(筆者註:牧神のこと)の快活さにたいしてであり、それは同時に、ほかでもないぼく自身の足どり、ぼくの血を吸おうと待ちかまえるぼく自身へのいきどおりにほかならなかったのではなかろうか。ぼくもまた、フォーンの笛を吹かねばならぬのだ。」

ここでも、再帰的に自己自身の血を吸う、合わせ鏡の世界でそうやって言葉を紡ぐことを決心する、半獣半神の、人間であって人間ではないものとして生きる決心をする安部公房の言葉です。


11。キャンティ(Chianti)
「小田実のことが話題になると、氏は「数日前六本木のレストランの入り口の所にあの男が立っているのが遠くから見えてね」とひどく人なつこい表情をしながら「まるでその辺の空気がいっぺんに汚れ、曇ったように思えて、僕は一目散に逃げ出したのだ、百米くらいも走ったのだ」と身振り手振りで走る真似をして、私たちを笑わせた。」(西尾幹二『三島由紀夫の死と私』)

三島由紀夫がこの逸話でいっている「六本木のレストラン」とは、キャンティ(Chianti)というイタリア料理のレストランです。

この有名な人士の多く集まる有名なレストランの、三島由紀夫は常連でした。また、安部公房との関係では、やはり常連であったのは、勅使河原宏でありました。

この店の経営者、川添浩史は、安部公房原作、勅使河原宏監督の映画『砂の女』をひっさげて、1964年のカンヌ映画祭に出品させることを果たしております。

三島由紀夫か勅使河原宏か、このふたりのいづれかが、安部公房をこのレストランに最初に連れて来たものでしょう。安部公房も、その後この店の常連となっており、あまつさへ、3階にあった「キャンティシモ」というダンスのできる店で、三島由紀夫と一緒に、当時流行したゴーゴーを踊っております(『キャンティ物語』野地秩嘉著。幻冬舎文庫、166ページ)。

ゴーゴーを踊る三島由紀夫と安部公房の姿は、見ものであったことでしょう。

この逸話を語っている黛敏郎というこの著名な音楽家によれば、1969年のことだということです。

安部公房は、このレストランで偶々見かけたリルケの贋の息子についてのエッセイを『リルケ』という題名で書いております(全集第21巻、238ページ)。この贋の息子の履歴を見ますと、時は1964年、東京オリンピックの年だと思われます。

このレストランについては、もぐら通信(第28号)に『キャンティとリルケの贋の息子』と題してお伝えします。

何故三島由紀夫が小田実を嫌ったかというと、当時この男の組織したベトナムに平和を!市民連合(略称「ベ平連」)という組織の事務局の一人を、共産主義国家ソヴィエト連邦の秘密警察組織であるKGBが「抱き込み、その人物を通してアメリカ脱走兵の入国計画を立案・実行したのである。したがって、ベ平連がアメリカ兵の脱走を手伝い、隠れ家を与えていたのだ。」という事実があったからです。(レフチェンコ『KGBの見た日本』)(同書、92ページ)

「嫌った理由は、小田が平家蟹のような醜男だったからではない。ソ連の崩壊によて機密文書が公開されて、KGBとの関係が明らかになり、資金の流れなどが、あれこれ取り沙汰されている。国を売ることはゆるされない。「その辺の空気がいっぺんに汚れ」とは、いかにも三島らしい的確な表現である。」

このような事情は、現在の日本でも全く変わらない事態であるように、わたしには思われます。

安部公房は、蟹が大好きでしたが、対して、三島由紀夫は、蟹が大嫌いなのでした。


12。殉教
「フレーザーの「金枝篇」の古代の穀物神の章を読む者には、この起源はおそらく自明であり、ユングも、セバスチャンが、若く清らかな肉体のまま射殺されるのは、アドニス同様、古代の農耕儀礼の人間犠牲の名残だと書いてゐる。」(三島由紀夫「あとがき『聖セバスチャンの殉教』」)(同書、102ページ)


三島由紀夫が聖セバスチャンの殉教に憧れていたことは、よく知られていることです。このテーマでの裸体写真を、三島由紀夫は、篠山紀信に撮影させております。

さて、安部公房の場合も同様に、美しい若者の死を代償にして、全宇宙が鳴動し、蘇生するというリルケの主題を、10代のときに十分過ぎる位に自家薬籠中のものとしました。『オルフェウスへのソネット』という53篇からなる長編詩が、それです。

加えて、ニーチェの『ツァラトゥストラ』をも深く読んで、その思想を「概念から生への没落」と簡潔に要約できて、実践するほどでしたから、この、三島流に言えば殉教ということと同じことを、安部公房は安部公房流に繰り返し、その作品の中で描いております。

当然のことながら、その場合の主人公はみな、自己の帰属する 社会から外部へと、上位接続空間へと脱出をして、残してきた社会を陰画の社会として見て、その死を、或いはその生を、そのような社会の犠牲に供するのです。そうして、社会もまた、その死によって蘇生をする、そのことを主人公は密かに願っているのです。

ここでも、三島由紀夫と安部公房の、対照的な共通項があるわけです。


13。本物と贋物
「死ぬまで三島は、「関の孫六」を本物と信じて疑わなかった。名刀どころか、まさか四、五万円で売買されるような”安物”を掴まされたとは、考えもしなかったであろう。政治家でない三島は、人の善意を信じる甘さが抜けきれなかった。
刀剣の世界には、魑魅魍魎が巣くっている。」(同書、108ページ)

三島由紀夫は、この関の孫六を市ヶ谷の総監室に佩刀しております。

何かこの逸話に接すると、言語の世界に住むべき藝術家が、実際の現実にどれほどに、しかも政治的に足を踏み入れることが極めて危険なことであり、自分の命を賭けることになって、場合によってはその尊い命を喪うことになるのかを、わたしたちに示しています。

同じ経験を、安部公房は、マルクス主義を盲信し、日本共産党に入党して、その信ずる自分の文学を実践して、実際に革命を起こそうと考えました。

このことが、実に、この二人には共通したことだと、わたしは思います。

三島由紀夫の場合には、三島が現実に対して起こることを期待していたのは、左翼の過激派が暴徒化し警察力で抑えられない場合、自衛隊が治安出動することであり、更に、治安出動した自衛隊は憲法9条の改正を撤兵条件にし、国軍の地位を獲得するというシナリオでした。楯の会は警察力が潰えて自衛隊が治安出動するまでの間隙を自らの命を張って埋めるという目的を持って訓練していたと聞きます。そして、暴徒に素手で立ち向かい殺されることを本望としていました。

これが、三島由紀夫の描いたシナリオでした。

安部公房の場合には、安部公房が現実に対して起こることを期待していたのは、1957年に日本に革命が起きるという幻想でした。当時安部公房と親しかった画家、池田龍雄は、次のように回想しています。

「「もうすぐ、革命は近いよ」と、それが起こる可能性の年まで示して囁かれたときには、さすがに眉に唾を付けたものである。しかし、どこかでその気になっていたらしく、「1957年」という数字を読み込んだ暗号めいた文言が、わたしの当時の日記に残されているのは可笑しい。」(『安部公房を語る』所収の「詩的発明家--安部公房」。あさひかわ社刊)

安部公房にも、同様にシナリオがありました。それは、専ら言語の側から描かれた革命のシナリオでした。この詳細は、『安部公房と共産主義』という論考で、もぐら通信(第29号)にてお話しします。

しかし、わたしが思わずにはいられないことは、このような天才と呼ぶべき、当時も今でも日本を代表する言語藝術家たちが、揃いも揃って、現実を信じすぎて、藝術の世界を踏み出して、現実と生きた人間に裏切られ、その命を喪い、また喪う危機に、みづから求めて死地に向かうということです。

このような三島由紀夫を自分の同類として十分深く理解している安部公房の言葉が、やはり『反政治的な、あまりに反政治的な』にありますので、これを引用して、紹介します(安部公房全集第25巻、374から375ページ)。

「ふと思う。ぼくらには案外根深い共通項があったのかもしれない。文学的にも思想的にも違っていたし、日常の趣味も違っていた。ぼくがカメラ・マニヤなら、彼は時計マニヤだった。ぼくが大の蟹好きなら、彼は大の蟹嫌いだった。しかし、ある種の存在(もしくは現象)に対する嫌悪感では、完全に一致していたように思う。いつか銀座のバーで飲んでいたとき、とつぜん二人同時に立ち上がってしまったことがある。同時にトイレに駆けこもうとしたのだ。理由に気付いて、大笑いになった。某評論家が入って来たところだった。
 ぼくらに共通していたのは、たぶん、文化の自己完結性に対する強い確信だったように思う。文化が文化以外の言葉で語られるのを聞くとき、彼はいつも感情的な拒絶反応を示した。しかもそうした拒絶反応が、しばしば三島擁護の口実に利用されたり、批判や攻撃の理由に使われたりしたのだから、ついには文化以外の場所でも武装せざるを得なくなったのも無理はない。それが有効な武装だったかどうかは、今は問うまい。安易な非政治的文化論の臭気に耐えるほど、鼻づまりの楽観主義者になるには、いささか純粋すぎたのだ。文化的政治論も、政治的文化論も、いずれ似たようなものである。
 反政治的な、あまりに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去にはなってくれそうにない。」

安部公房が、マルクス主義と日本共産党を信じたために、一体どんなにその命を喪いかけたか、どのように危機的状況だったかは、『安部公房と共産主義』という論考で論じます。


14。文化観
「三島は、文化に対する偽善的風潮を極度に嫌った。
 こと文化に関しては、”清掃”や”衛生”という観念を嫌った。」(同書、110ページ)

上の「13。本物と贋物」の共通項と全く同じように、ここでもこの嫌悪感を、安部公房は三島由紀夫と共有しております。

安部公房が安部公房らしいのは、全く独自の論理・数学的な観点からも、好きなものが便所であり、便器であり、ゴミ処理場であり、そのような対象と対象の間(はざま)、隙間、割れ目に在る、人に知られることのない対象ばかりであるということであるところが、全く安部公房らしいのです。勿論、これらのものは、安部公房の感性や感情にも強く訴えるのです。

安部公房もまた、清掃や衛生を嫌った藝術家であることは、明々白々です。

新潮文庫に『笑う月』所収の「シャボン玉の皮」というエッセイがあります。このエッセイは、何故自分は写真撮影が好きなのかという理由を、便器や塵(ごみ)との関係で語った、安部公房の思想と感情が率直に表白されている、よいエッセイです。全集第24巻、416ページにあります。引用してお伝えした箇所は沢山ありますが、例えば、その一部。

「まずたとえば、ゴミである。なぜかぼくはゴミにひきつけられる。あるいは、ゴミを捨ててある場所にひきつけられる。」

「しかし、ぼくはこうした情況の意味の面白さにひかれてシャッターを切ったわけではない。ゴミ捨て場と同じく、それら廃物や廃人たちが、恐ろしい声で叫ぶのを聞いたせいなのだ。それ以上の説明はできない。とにかく音叉のように、ぼくの内部で何かが共鳴しはじめ、身の毛もよだつ思いで、しかも強くひきつけられてしまうのだ。
 ほくはその叫びを恐れていながら、同時に聞こえなくなることを恐れているような気もする。(略)ゴミ捨て場のイメージが消滅すると同時に、あらゆる創造の衝動が消えてしまいそうな予感がある。小説も舞台も、けっきょくはゴミ捨て場から聞こえてくる叫びを、かわって叫ぶ作業のように思われる。」

「ゴミ捨て場から聞こえてくる悲鳴は、どうやら、ゴミを食う沼(筆者註:満洲奉天の小学校の側にあった底なし沼)にくわえまれ、咀嚼されはじめた「有用性」の叫びらしい。すくなくもぼくには、そんなふうに聞こえる。まだ自分がゴミそのものではないという自覚(もしくは幻想)が、かろうじて日常を支えてくれているシャボン玉の皮なのだ。そのシャボン玉の皮の上に、たぶん明日も、ぼくはなんとかゴミを食う沼の見取り図を書きつづけることだろう。もしかするとゴミは砕かれた人間の伝説なのかもしれない。」

安部公房も三島由紀夫も、文化に対する偽善的な風潮を嫌ったのです。それは、上記「13。本物と贋物」で『反政治的な、あまりに反政治的な』を引用して述べた通りです。

安部公房は、芥川賞受賞作『壁』所収の「S・カルマ氏の犯罪」や『方舟さくら丸』で、老人に箒を持たせて、そうして便所のあたりを掃除する、そのような形象を、これら以外にも、繰り返し描いております。後者の話の後半に、その中心の座を占めるのは、何でも飲み込んで処理してしまうゴミ処理機の便器なのです。


15。盾の会
「昭和四十三年十月五日、民間防衛組織「盾の会」が結成された。
 皇室を守護する神兵であり、「聖セバスチャン」の親衛隊でもあった。「盾の会」の三原則は、「軍人精神の涵養」「軍事知識の練磨」「軍事技術の体得」である。」(同書、119ページ)

安部公房もまた、軍事的なものが好きでした。ドナルド・キーンさんとの対談『反劇的人間』では、繰り返し戦時中の、それからナチス戦敗後の降伏するナチスの若い兵士の映画をみることが大好きで、繰り返し繰り返しみるのだと言っています(全集第24巻、245ページ)。 ヒットラーの演説の映像を見ることも、本当に繰り返しみるほどに好きだと率直に語っています。

また、安部公房は、ナチスの黒い鉤十字の紋章もまた愛着し、深くその意味を理解しておりました。

これらのことについては、『もぐら感覚22:ミリタリィ・ルック』で詳細に、10代の詩群から晩年の作品に至るまでを通覧して論じましたので、お読み下さい。

それにしても、『ユリイカ』(1969年(昭和44年)8月号)にある『アヴァンポップの故郷----テクノロジーとしての文学原基』と題した、巽孝之と久生十義の対談は、素晴らしい。その中で、後者が語る、安部公房のナショナリズムについての発言を以下に引用して、安部公房という人間をお伝えいたします。

「久間 誰もが知らずにアベコーボーしている(笑)つまり物象化された安部公房現象がいまではありふれた光景になっているというのは、実際ありそうな話ですね。安部公房の文学がフォルムとして受け入れされて、無意識のうちに安部公房のフォルムをなぞるようなかたちで小説が産出されてくるというのは、これは非常に当然というか、自然なことですからね。しかし、この希薄化され、出自を忘れたアベコーボーたちは、少なくとも僕自身に強くアピールしてくるわけじゃありません。仮に、安部公房のフォルムを成り立たせているある契機みたいなものについて、彼らが非常に無意識のままであるとすれば、案外、安部公房を縮小再生産している部分があるんじゃないでしょうか。

 さっきナショナリズムということをおっしゃいましたけど、安部公房の提出した文学的なシェーマは、ぐるりひとひねり回ってというか、それこそ、”メビウスの輪”的にナショナリズムの問題と重なりますね。彼一流の、ある疎外された状況を観念的にズラしていく、その状況を受け入れつつ、そうじゃないんだというふうにしていく問題というのは、普通に考えたら、非常に強い権力的なバインドがあって、我々がにっちもさっちもいかない時に、そのにっちもさっちもいかない中で自由を見出そうとする時に出てくる問題なわけです。

例えば、特攻隊員が明日死んでいく、その死んでいく中に真の自由があるんだとか、そういうような言い方と重なる部分が、僕はあると思うんですよ。つまり、現実的に成就されないものを観念の中で成就するという思考パターンがあって、安部公房はその可能性と不可能性の両方を、彼の設定した物語構造の中で逆説的に示そうとした。それは、実際には我々はひとつじゃないのも関わらず、想像の共同体としてネイションというものを考えていくのと、ある部分では重なっている思考形態です。よくいわれるような安部公房のコスモポリタニズムとナショナリズムというのはだから鏡の裏表なんです。同じような土壌から出てくるんだけれども、一方では決定的に、その共同性みたいなものを嫌い抜くというか、そういう精神のかたちを取り続けたいという思い、もう一方はその共同体のために殉じようとする。根が同じだから逆の態度もでてくるわけで、徹底した安部公房の共同体嫌悪をぼくらは額面通りに受け取るだけじゃ、大事なものを取り逃がすかもしれない。

 そしてさらに言えば、そういう、現実に成就できないことを観念の世界で成就していこうという考え方というのは、一種のオポチュニズムというか、それが引き金になった政治的な熱狂へと変化しかねないものでもあるわけです。例えば経済的に非常な不況があって、我々がそこでは物質的に自己実現できない時に、何か知らないけれども我々を熱狂させるような、非常に魅力的なものが出てきたとしたら、我々はふっともっていかれる。僕はファシズムを想定して言っているんですが、そういったものと重なってくるんじゃないか。

ですから、安部公房がシェーマとして立てた問題が立ち上げる場所と、それからファシズムのようなものが---ファシズムって、べつにバカな連中が考えたバカな政治思想じゃないですからね。実は非常に魅力のあるものだと思うんですよ。---立ち上がる場所というのは似ていて……。と言うか、じっさい同じ時代に安部さんも生きていたわけですよ。そこのところを忘却して、安部公房のフォルムだけを無意識のうちに再生産したり、我々自身のリアリティを安部公房に押しつけているようなかたちで彼を消費するようになったら、それはもう少し考え直したほうがいいんじゃないかと思うことがあるんですね。」

この作家のいうことは、全くその通りです。

この言葉は、何故安部公房はあんなに繰り返し、ナチスの制服と映画を観ることが好きであったのかの十分な説明になっております。

そうして、また、この言葉は、何故安部公房が日本共産党員になったのか、その安部公房最大の弱点を余すところなく指摘しております。


16。クーデターと革命
上記「13。本物と贋物」で、三島由紀夫のクーデターと安部公房の革命については、既に論じましたので、これを参照下さい。

こうしてみると、安部公房と三島由紀夫の共通項のひとつに、深く、本物と贋物という主題があることに、改めて気付きます。


17。犯罪
「それにしても犯罪の中にあるあの特権的な輝きは何だらうか。」(三島由紀夫『小説とは何か』)(同書、126ページ)

安部公房の主人公がみな、無名、無知、無能、無役の人間であって、世間の管理台帳には全く未登録の人間であること、従いこれらの主人公はみな、法律の外に棲む人間であること、更に従い、犯罪者であることは、言うまでもありません。

これは、三島由紀夫が、上流階級を書いたのとは、全くここでも接点は共有しているが、方向は正反対だということになります。

この無名の人間であること、そうしてそのような人間として固有の死を死ぬということは、10代のリルケに親炙した時代から生涯持ち続けた思いです。

「14。文化観」で引用した『シャボン玉の皮』の最後のところで、安部公房はこう述べています。

「ぼくはニヒリストを気取るほど楽天家ではないが、希望を語るにはゴミと気心を通わせ過ぎた。ただ、せめて自分だけのオリジナルな死を死ぬために、一般的な死を拒絶したいと思うくらいの利己心はある。」

この言葉を書いたときは、1973 年。安部公房49歳。

1970年11月25日の三島由紀夫の死に衝撃を受けた安部公房は、その後自分本来の世界、すなわちリルケの詩の世界と10代の詩の世界に回帰することを決心し、実際にそうしたというのがわたしの仮説です。

即ち、それまでも安部公房の考え方も創作の方法も実際にはそうでありましたが、しかし、もっと意識的に、一層時間の空間化ということをいい、小説も戯曲も舞台もみな、時間の変化を空間の幾何学的な関係に変換し、置換して、関数関係で表現する道を積極的にとるようになります

以上のこれまでの考察で、これだけの共通項があるのですから、それを一挙に喪った安部公房への衝撃は誠に深甚なるものがあったと思います。


18。狼
「私の読みたいのは、動物学者の書いた狼物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に映った事実であり嘘であれば、私は信じる。」(三島由紀夫『青春監獄』の序)(同書、134ページ)


安部公房は、作家生活の人生の最初の20年の締めくくりとして、それまでの作家活動を振り返って、若いときに書いた短編を集めた短編集『夢の逃亡』を発刊します。その後書きに、三島由紀夫とそっくり同じことを、しかもこれも同じように青春との関係で、書いております。1968年、安部公房44歳。

「ここに収められた作品は、すべて昭和二十年代に書かれたものである。なかには、私自身、読み返してみるまでその存在さえ、すっかり失念していたものがあるほどだ。
 当時の私は、濃霧の中をさまよっているような状態だった。今でも霧がはれたと思っているわけではないが、あの時代の霧はまた格別だった。書くことによって、わたしはその霧を切り抜け、しかし書かれた結果にはついては、どうでもよかったのかもしれない。あれは戦後だった。そして、私の青春の最後の数年間だった。
 当時、私には長い間、住む家がなく、また金がなく、したがて飢え疲れていた。明日の糧どころか、今日の糧を得るさえ困難なことがしばしばだった。そのくせ作品には、貧困や飢えのことはあまり出てこない。多分、そうした状況を、なにも特別なことではなく、恒常のものとして受け止めていたせいだろう。だが、この作品集の背景にあるものは、まさに飢えた青春そのものなのである。私は、森の木蔭で、憎悪の牙をむき出している、飢えた狼のような自分自身の姿を、ありありと思い出す。ほとんどモラルの問題が顔を出さないのが、飢えの哲学の特徴なのである。」(新潮文庫、248ページ。平成六年七月十五日十九刷。)

と書いて、続けて、戦争中のリルケの意味について語っています。

このような青春時代に、安部公房と三島由紀夫の20代の後半に、二人は出会い、親しき友となるのです。

三島由紀夫は、安部公房という狼の目に映った嘘を信じ、安部公房も同様にまた、三島由紀夫という狼の目に映じた嘘を信じたのです。

初めて、安部公房が三島由紀夫と会ったときのことを、当時の親しき友、中田耕治が全集第2巻の贋月報第2号で回顧しておりますので、それを引用します。

当時、中田耕治は、1949年3月から、安部公房と一緒に世紀の会を創設して活動を始めていた。これはその世紀の会のごく初期のころの逸話だと思われますす。

「安部さんと三島さんが出会った時を覚えています。三島由紀夫の創作集を取り上げて、安部と僕でそれぞれ一冊ずつ書評を発表して討論する集まりがありました。武田泰淳、埴谷がいて。本多秋五が「安部公房は頭いいね」と言ったのを覚えています。このとき三島さんが出席していました。神田の昭森社の関係でラドリオかランボーだったと思います。僕は『夜の仕度』を取り上げました。安部さんが何をやったか覚えていませんが、全否定していました。「こういう小説は可能性がない」というようなことを言っていたと思います。三島さんも安部はすごい奴だと思ったみたいでした。それから二ヶ月ぐらい後だったか、本郷のバーで、安部さんと、三島、花田清輝、加藤周一が大論争していたのを覚えています。そのころから安部さんの議論の展開は非常にポエティックだった。一九四八年頃のことでした。」

安部公房は、三島由紀夫の『夜の仕度』について、何故「こういう小説は可能性がない」と言ったのか、これはまた別に稿を改めて論じます。

また、今度は、ふたりが出会った後、如何に急速にふたりは親しくなり、お互いを理解し合っていたかを証言する、これも当時の安部公房と親しかった友、画家池田龍雄の回想があります。全集第11巻贋月報第11号。

「あれはいつだったけなあ…。安部公房を励ます会っていうのやったのですよ。「幽霊はここにいる」の上演の年ですから、 五八年頃だと思います。はじめのほうでスピーチを三島由紀夫がやったんです。それが安部公房をちょっとけなすようなことを言いながら、ものすごく持ち上げていて、うまいスピーチでしたね。けなし方を聞いていて、相当親しいんだ、という印象をうけたんです。安部さんは当時はコミュニストでしたから、でも三島はバリバリの右翼ですからね。安部公房は私と反対側にいる、警戒すべき男だ、とかなんとか言いながら誉めていたんだと思います。」

これが、二匹の狼同士の出会いであった。

安部公房の10代から大切にしてきた詩的形象のひとつに、獣という形象があります。

上記に言及した『夢の逃亡』という短編集の中のその名前の短編は、主人公が獣であるといっていいのです。この主人公は、表立った主人公たちの無意識の中に棲んでいて、彼らを変形させてしまうほどの根源的な力を持っているのです。10代の詩にも、これらの作品以外の小説にも、獣は出てまいります。これは稿を改めて論じます。


19。青春
「三島は青年の”潔さ”を好み、老人の”怯懦”を嫌った。
 わけても偽善的な美濃部亮吉を毛嫌いした。」(同書、153ページ)

「現下日本で、イデオロギーを超えたもつとも甘い超党派理念は「偽善」である。『黒い雪』に目クジラを立てた婦人層の何割かは「清潔」な美濃部都知事には安心して投票したにちがひない。」(三島由紀夫『黒い雪』裁判)

『黒い雪』は、武智鉄二の監督した映画で、昭和40年(1965年)に公開され、大ヒットした映画です。検察庁は、この映画を猥褻図画公然陳列罪で起訴しました。

三島由紀夫は、この弁護を買って出て、被告人側の証人となったのです。

三島由紀夫が人間の、文化的退廃として、老人の偽善を嫌ったことは、すでに「14。文化観」で語った通りです。

これを安部公房流に言うと、つぎのような言い方になります。山田真知子と結婚したときに、哲学談義をした親友、中埜肇に宛てた、結婚に対する考え方、一般的な世間の生活の中に入るように見えるが、そうではないという決意を述べた書簡です(『中埜肇宛書簡第9信』全集第1巻、267ページ)。

「サンボルと言ふものは経験の年によつて次第に老け込み、終ひには習慣と言ふ恒数に迄追ひやられて終ふでせう。これが何よりも恐ろしい生存の没落です。それは或る意味で生存の不注意から来るものです。僕はしつかりと各瞬間の存在の生誕であるサンボルを掴んで行きたい。」

また、安部公房が三島由紀夫をどのように深く理解していたかも、特に「1。剣道」と「13。本物と贋物」で、『反政治的な、あまりに反政治的な』を引用して、また「18。狼」で、お話した通りです。

安部公房全集第30巻の索引をみますと、安部公房は、青春という言葉を使った次のような題名の資料を残しております。

(1)青春のたまり場をゆく:1955年:第5巻、7ページ
(2)青春の生甲斐(座談会):1956年:第5巻、411ページ
(3)青春(東欧を行く):1956年:第7巻、91ページ
(4)青春の心:1957年:第30巻、72ページ
(5)青春と暴力と性(対談):1978年:第26巻、267ページ

『黒い雪』が世上、その過激な性的映像で問題になった同じ1965年、8月1日に、安部公房は『被告席から』と題した文学とセックス描写の関係を、ノーマン・メイラーを主題に据えて論じております。

ここには、この映画の名前は出てきませんが、同じ年ですから、また三島由紀夫のこともありましょうから、安部公房がこの映画のことを意識しなかったことは、なかったでしょう。

ここでの安部公房も、やはり、「14。文化観」や『反政治的な、あまりに反政治的な』を引用してお伝えしたように、”清掃”や”衛生”という観念を嫌い、老人の怯懦に強く反発しております。

「それとも、クロンハウゼン流に、芸術の精神衛生学的効用でも論じていただろうか。馬鹿々々しい限りである。そんな論法は、検事の諭告以上に、ぼくのプライドを傷つけるだけのことだ。
 まあ、プライドのことは、ひとまずおくとしても、性描写が精神衛生学的効用をもつという考え方は、一見、検事の説に反対しているように見えながら、じつは、現代が性的神経症にむしばまれているという結論を、ともかくも認めてしまったことになるのである。」

1965年。この年の12月に、安部公房は『終りし道の標べに』を、戦後直ぐの、そうして安部公房自身の処女作であり、埴谷雄高に発見される契機となったこの優れた日本語による存在との格闘を書いた、初々しい哲学思弁小説の真善美社版の原稿を大幅に改稿して、冬樹社から出版しています。

即ち、10代と20代の獣のような自己を養うためにあれほど必要としていた独自の哲学用語をすべて抹殺して、いや奥深く人眼から隠して、自分の青春との決別をしたのです。安部公房41歳。安部公房は次のように、その『あとがき---冬樹社版『終りし道の標べに』』で書いています。

「当時私は、文学的には完全に孤立していた。小説の概念も、まったく自己流のもので、小説を書こうというよりも、たぶんひとつの世界を書こうとしていたのだと思う。戦争中のあの閉鎖的な空気のなかで、リルケとニーチェの間を往き来しながら、実存主義だけをたよりに自分を支えてきた私には、小説的虚構も、世界を表現するための手段以上には、なんの意味も持ちえなかったのだ。しぜん出来上がった作品は、きわめて非小説的なものにならざるをえなかった。新しい小説を目指したためではなく、乗り越えるべき旧い小説をさえ、私はほとんど持っていなかったのである。」
 しかし、あらためて読み返してみて、やはりこの作品を、私の出発点として認めざるをえないという気持ちになった。作家はつねに処女作に帰るものだという、宿命論的な言い方を、私はあまり好まないが、この作品が、いまなお私の仕事をつらぬいて通っている、重要な一本の糸のはじまりであることを、否定することは出来ない。さすがに表現のまどろっこしさは争えず、多少手を加えはしたが、あくまでも原意をより明確にする範囲内にとどめることにした。二十年間行方をくらましていた、私の最初の分身を、いまは心よく迎え入れてやりたいと思う。---そう、これが私の処女作なのである。
 一九六五年十一月
                           安部公房」

しかし、この青春との決別を、すべて根底からひっくり返したのが、三島由紀夫の死でありました。

こうして、1973年に、もう一度リルケの『マルテの手記』に倣って、20代では小説家として出発するために『名もなき夜のために』を書いてリルケを乗り越えようとしたように、今度は逆方向に、リルケの世界に回帰するために、安部公房は『箱男』を書くのです。前者は第1回目の、安部公房の『マルテの手記』、後者は第2回目の、安部公房の『マルテの手記』です。

それと同時期に、安部公房スタジを立ち上げ、この論考の中で述べたように、小説と同じ時間の空間化という考え方で演劇論を語り、俳優の演技論としては、ニュートラルという概念を中核に据えて、時間の無い空間、即ち純粋空間の、自分の10代の、詩の世界へと回帰する決心をするのです。

この処女作の改稿のときに、既にその予兆はあって、それは、この改稿の最後を次のように、安部公房は書き改めているからです。『もぐら感覚21:緑色』から引用して、緑色という視点から、小説のこの最後の箇所を初版と再版とで比較をしてお話しします。

『終りし道の標べに』の最後にも緑色が出て参ります。真善美社版と冬樹社版を比較すると、次のことが判ります。

真善美社版は、1948年、安部公房24歳、冬樹社版は、1965年に刊行、安部公房41歳。

[真善美社版]
ふと涙が頬を伝って足下に落ちた。それが地面に消えようとするときキラッと輝いたのに気を奪われて俯向くと、がさがさに融けては又凍った氷雪の割目に、小さな、しかし目も覚めるような緑の草の芽がのぞいているのに気付いた。ああ、私はこんな童話を求めていたのではなかったか。なんという儚い郷愁の香りだろう。(全集第1巻、388ページ)

[冬樹社版]
 すぐ足もとの、凍ったまま融けた雪のくぼみから、小さな緑の若芽がひとつ、やましげに首をもたげている。……いや、やましかったのは、むろん若芽のほうではない。その若芽によって引きおこされた、鋭い痛覚……悔恨の情……植物のみがもつ、あの完璧な自己閉鎖と自己目的的充足に、私の内部の動物が、思わず羨望のうめきをもらしてしまったのだ。(全集第19巻, 470ページ)

前者、即ち真善美社版では、やはり、「氷雪の割目」と言っております。この割目が何を意味するのか、次の『もぐら感覚22:ミリテリィ•ルック』で論じた通りです。この割目に落ちるものが、涙という滴であることが、実に安部公房です。『秋でした』という詩にも、この涙、実は緑色のなみだが出て来ました。それが割目、隙間、間隙(木の間 木の間)に、この小さな空間に落ちる事、これは、論じた通りです。

ここで、安部公房は、散文家になった後に、こうしてみると、詩の世界での緑色の涙を、緑色と涙に分解して、二つに分けて、安部公房の思考論理の通りに、主観と客観に分けて、散文として叙述したということになります。実に、安部公房らしい。20代の前半に詩人のまま小説家になろうと努力していて、安部公房が何を考えていたのか、どうやって自分の詩的形象を散文としたかがよく判ります。

「目も覚めるような緑の草の芽」というところに、このときの安部公房の思いがあるでしょう。これは、夜の世界の緑色、即ち紫色ではないのです。春の、自然の中の緑色であって、それから遥かに遠い主人公の生きる世界の緑色ではないのでしょう。しかし、いや、つまり、この小説にこの緑色の結末を持って来た安部公房は、リルケの詩の世界の「冬眠の巣」ごもりから目覚めて(全集第21巻、437ページ下段)、やはり現実の時間の中で生きようと決心したのです。

後者、即ち冬樹社版の「小さな緑の若芽がひとつ、やましげに首をもたげている」というこのやましさは、その後直ぐに語り手が註解している通りでしょう。これは41歳の小説家の安部公房が、詩の世界を振り返って思った、「鋭い痛覚……悔恨の情」を以て「植物のみがもつ、あの完璧な自己閉鎖と自己目的的な充足」という言葉は、やはり、安部公房が自己を語ったという以外にはないと思います。再帰的な人間は、他者を敢えて必要とせず、自己目的的に、完結した、合わせ鏡の世界に生きているのです。また、植物は、時間の無いリルケの純粋空間に棲む生き物の一つでした。この自分本来の性質を、安部公房は終生、特にその前半の20年は、いつも否定していましたし、その20年の最初の10年は共産党員にまでなって、自分の本来の性質に逆らって生きたのです。何故安部公房が日本共産党員になったかは、稿を改めて詳述します。

さて、この「完璧な自己閉鎖と自己目的的な充足」に対して「私の内部の動物が、思わず羨望のうめきをもらしてしまった」と書いているところに、安部公房の当時の、戦後の、天井を取り払われた時代の空気を吸って、どうしようもなく自己の中に脈々とある青春の力を覚える安部公房がいます。安部公房も自分自身を持て余したのでしょう。これは、短編集『夢の逃亡』の後書きにあるように、「森の木陰で、憎悪の牙をむき出している、飢えた狼」に自分を譬えております。その通りなのだと思います。それは、単に貧しかったからというだけではないのです。

安部公房の前半の20年は、この青春の力を以て、社会と国家の中に出ていった20年でした。後半の20年は、三島由紀夫の死、それも切腹という儀式に即した死、日本の国と天皇陛下のためにそのように実際に死んだというその死によって衝撃を受けた安部公房が、「植物のみがもつ、あの完璧な自己閉鎖と自己目的的な充足」に、リルケの純粋空間に、回帰しようとした後半の20年だと、わたしは思っております。リルケに学んだ通りに無名性に没して「自分だけのオリジナルな死を死ぬために、一般的な死を拒絶したい」(『シャボン玉の皮』、全集第24巻、419ページ上段)と思いながら。

しかし、三島由起夫の死ほど、戦後において一般的ではなくその人間固有の死は無かったのです。これが、安部公房とあらゆる接点を共有していて互いに対称的であり、対照的であり、その方向がすべて反対であった三島由紀夫の死が、安部公房に、大きな、深い衝撃を与えた一番の理由だと、わたしは思っています。安部公房と三島由紀夫については、稿を改めます。









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